劣化する日本人とPAX JAPONICA

時代を読む 第67回 原田武夫

時代を読む 第67回 原田武夫

ばつ

最近、こんなことがあった。私はささやかな研究所を株式会社として経営している。スタッフ諸兄は実によく働いてくれるのだが、中でも最も精勤してくれている幹部からこんな相談があった。曰く「研究所のロッカーの鍵が一つ開かなくなってしまった。修理をお願いしているのだが、メーカーからは修理担当が繁忙で、来られるとしても1週間後だとのつれない返答です。どうしましょうか」

よくあることといえばよくあることなのだが、私は少々面食らった。何せこの「メーカー」というのが我が国では知らぬ者のいないブランドなのである。それが「修理担当が忙しいので参上できない」と真正面から答えているというのだ。正直、怒り心頭ではあったが、そこで私は策を案じた。

「では、そのメーカーに電話をかけてください」

外務省時代には当時の上司同様、瞬間湯沸かし器であった私が、12年余りも娑婆で泳いでいると、必ずしもそれだけでは動かないことを心得ている。静かに私は部下にそう命じたのだ。しばらくすると「かかりました」との伝令。早速、出てみると、ややヘラヘラとした顧客対応の中年男性だった。

「クレームはいただいています。しかし、こちらも手一杯で無理なんですよ……」

どう考えても余裕がある様子で顧客対応氏は、私の問いに答えてきた。

そこで私はこう返した。

「それは重々承知しているのですが、実はこちらも困っておりまして……。刑事案件に巻き込まれており、当方の冤罪を証明する書類がこのロッカーに入っているのです。仮にそれを取り出せないとなると、当局が当方を検挙しに来る勢いです。いや、もっといえば『証拠隠滅』で御社も共犯扱いされてしまうかもしれない。何とかならないでしょうか……」

今度は向こうが面食らう番だった。しかし「シフトが組めない」と言ってしまった以上、ここで引き下がらないのが、ニッポンのサラリーマン根性なのだ。「いや、しかし……」といまだ答えてくるので、私が言葉を次いだ。

「あなたでは恐縮ながら、ご判断できないということであれば、上長、いや、案件が案件ですから、御社の社長を通話口に出していただければと思います。何せ、当該案件は新聞朝刊のトップに掲載されるかもしれない案件なのですから」

無論、嘘も方便だ。

こう静かに述べてからさらに私は「1時間だけお待ちする。その間にご回答を」と続け、静かに受話器を置いた。

そして1時間後。来客があるようなので、オフィスの中にある私の執務室を出てみると、案の定、メーカーの修理要員が来てくれていた。そして言うのである、「いや、実は夏休みを関係者が交互に取っていまして。結果として社内で連絡不行き届きでした。申し訳ありませんでした」

これを聞いて私は、そもそも助けを求めてきた研究所幹部の肩を、“ポン”とたたきながら、こう言った。

「言ってみるものですよね」

私はそう言いながらさまざまなことを考えていた。―最近、戦前の上海で活躍した同胞たちの人脈について調べている。そんな彼らを見ていてつくづく思うのは「とにかく、何でもみて、やってやろう」という精神なのである。現地の中国人たちも舌を巻くような奥の手を使って大陸の利権を一つ、そしてまた一つとわしづかみにしていく。そんな上海人士たちの戦前と戦中、そして戦後の生きざまを振り返りながら、同じ日本人の端くれとして私は実に欣快なのである。

だがそれと同時に愕然(がくぜん)ともするのだ。現代の我が国におけるこの怠惰さ、諦観、そしておよそ自ら最後まで何が何でもやり抜こうとはしない「他責」を求めるメンタリティーが渦巻く日常。私たち日本人はいつからこんなふうに劣化してしまったのだろうか。

世界は今、必ずや我が国こそが新世界秩序を切り開くと(いまだ)信じてくれている。そのPaxJaponica(日本による平和)を成し遂げるために私たち日本人はいつ、目覚めるのだろうか。そう思ってやまない。

原田武夫 はらだ・たけお
元キャリア外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。情報リテラシー教育を多方面に展開。2015年よりG20を支える「B20」のメンバー。

※『Nile’s NILE』に掲載した記事をWEB用に編集し再掲載しています

ラグジュアリーとは何か?

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