浜旦那たちが塩づくりの閑散期に力を入れるようになったのが、酒づくりである。酒づくり自体は、以前から行われていたが、船の潮待ちや商人との交流に酒が用いられ、浜旦那たちのてこ入れでさらに発展したようだ。もともとこの地の気候が米づくりにも適していたことから、竹原は優れた酒の産地としても知られるようになる。1907(明治40)年に開催された、全国の杜氏(とうじ)が腕を競う第1回清酒品評会において、日本一を勝ち取ったのも、この竹原の酒蔵である。全盛期には26もの酒蔵が存在したが、現在も残るのは、ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝の生家としても知られる1733(享保18)年創業の竹鶴酒造をはじめとする3蔵。このうち、竹鶴酒造と、酒蔵交流館を併設する藤井酒造は、町並み保存地区を歩きながら、訪れることができる。
浜旦那が築いた経済力は、学問や文化の発展にも貢献した。武家の盛衰史をつづり、ペリー来航後の不安の中で幕末志士に影響を与えた『日本外史』の著者、頼山陽(らいさんよう)も竹原の人である。塩づくりに陰りが見えてきた頃、人々は家業のために学問を身に付けるようになり、竹原は文教の地としての側面も見せ始める。町並み保存地区には、頼山陽の叔父・頼春風(しゅんぷう)の邸宅である重要文化財の「春風館」や、春風の養子・小園の子による数寄屋建築「復古館」も残る。
町のシンボルとなっているのが、竹原の町を一望する西方寺(さいほうじ)の普明閣(ふめいかく)だ。京都・清水寺の舞台を模して建てられたという1758(宝暦8)年の建築だが、ここは1603(慶長8)年に西方寺が建てられる以前から禅寺があった場所であり、塩で栄えた竹原の歴史を見守ってきた。朝もやの中、普明閣に立つと遠くに海が見え、眼下に町並み保存地区の名家の屋根瓦が連なっていた。その下に塩づくりに励む当時の人々のにぎわいがよみがえるようだった。
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※『Nile’s NILE』2025年3月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています