リオネルはよく「食材の声を聞け」という言葉を口にする。たぶん次のような経験と思索が関係しているのではと想像する。
「私は築地に何年も通い、仲買人が活締めで魚に止めを刺すのを注意深く観察してきました。冷酷、血しぶき、硬直する筋肉、死の形相、そういうものが渾然一体となる中、集中力を切らさず、平静な彼らの表情の下に、瀕死の状態の魚に対する静かな敬愛の念を感じ取りました」
「活締めとは、その尊い死に見合う品格を魚の身に与えること、魚に“新たな生命”を与えることにより、食べる側である私たちの益となるものに変換することです」(以上、第1章「Le temps 時間」より)
音楽や美術にも生死を題材とする作品は多い。が、料理はリアルに生命を扱う。調理技術と生命観の連関がある。「料理とは生命から創造する芸術」であり、「生命を司る芸術」とも言える。
「職人が芸術家に負けないほどクリエイティブな国、ここ日本では、ひとつのアイデアを突き詰めた技術がミステリアスな領域まで高められることがあります。そんな日本の職人技、ものづくりの歴史に見られる新しい技術を生み出す手法に、私はいつも神の存在を感じずにはいられません」(同上)
二つの土地を自分の内に持つがゆえに見えるものがあるのだなとつくづく思う。
前述の「料理とは時間の芸術」という性質をリオネルは作り手の立場から次のように綴っている。
「時間は素材の変質を促し、否応なく素材を分解します。だからこそ、私たちは素材に手を加え、時間の流れを有効に活用し、時間の流れによって素材の細胞をおいしくするために、『時の番人』になる必要があるのです」(同上)
料理は、食べ手の体内に取り込まれない限り、物にすぎない。知覚され消化されて初めて食べ物になる。「料理とは食べ手によって完成する芸術」と言える。リオネルは記す、「一度キッチンを出たら、その料理はすでに私のものではなく、食べる人のものとなるのです」(前書きより)。一方、映画でミッシェル・トロワグロは「料理は永遠に完成しない」と語る。食べ手の感想を聞くと、作り手はその料理の新しい扉をさらに開こうとしてしまうから。「料理とは相互作用の上に磨かれる芸術」でもある。
生命を扱う行為が思索を高みへと押し上げるのだろうか、優れた料理人の言葉は、食の本質を鮮やかに浮かび上がらせる。
君島佐和子 きみじま・さわこ
フードジャーナリスト。2005年に料理通信社を立ち上げ、06年、国内外の食の最前線の情報を独自の視点で提示するクリエイティブフードマガジン『料理通信』を創刊。編集長を経て17年7月からは編集主幹を務めた(20年末で休刊)。辻静雄食文化賞専門技術者賞選考委員。立命館大学食マネジメント学部で「食とジャーナリズム」の講義を担当。著書に『外食2.0』(朝日出版社)。
※『Nile’s NILE』2024年11月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています