つまるところ、味覚というのは食べる側の嗜好(しこう)によるところが大きいので、科学的正解とは相容(あいい)れないものだということだ。
たとえば椀物(わんもの)の温度は何度がベストだという料理人がいても、それはあくまで主観によるもので、猫舌の客は異なる感想を持つはずだ。
当たり前のことだが、味覚というのはひとによって千差万別で、全員がまったくおなじ味覚だということなどあり得ない。したがって料理人はその最大公約数を狙うか、もしくは自分自身の味覚を信じるか、ふたつにひとつなのだ。
そしてその元となるのは、多くが積み重ねてきた経験、すなわち科学的知見である。
世に言う食通たちがこぞって求めるのは、こうした食の知識であり、それらは言わば食文明である。
どこそこ産が一番だとか、何センチの厚さがベストだとか、どんな調味料を使えばいいか、などそれらはすべて食文明がもたらした知識だが、それらの先入観は、本来無心であるべき、味覚を欺くこともあり得る。
科学によって解明される食文明とは別に、自然の摂理を素直に取り入れる食文化というものがある。
お造りに添えられる山葵(わさび)などがその典型で、先人が積み重ねてきた経験に基づく取り合わせ。寿司(すし)に生姜(しょうが)、鮪(まぐろ)や鴨(かも)に葱(ねぎ)、などもそうで、これらは知識ではなく、知恵なのである。
食文明は知識、食文化は知恵。この違いをぜひ覚えておいてほしい。
余計な知識を詰め込みすぎると、頭でっかちになり、味覚は鈍くなる。
いっぽうで、先人の知恵に素直に従うと味覚が鋭くなる。食文化に重きを置くべきゆえんである。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2025年8月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています