食を表現するのに、「おいしい」という言葉は不可欠であり、すべてに優先するものだと思っていた。もちろん人によって、おいしさの基準は異なるだろうし、Aという人が「おいしい」と思うものを、Bという人がおいしくない、と思うのはままあることだ。ではあるが、AもBも、その食に価値があるかどうかを判断するのに、「おいしい」という言葉を使うのはおなじである。
古くは女性だけが使う言葉だったようで、男性はもっぱら「うまい」を使ったようだが、その意はおなじである。「おいしい」という日本語は万人共通で、食べるという行為において、好むか好まないか、の判断基準になるべき言葉だと思ってきたのだが、それはさして重要ではない、という考え方を述べる美食家がいて、驚きを禁じ得なかった。
人はなぜ食べるかと言えば、それは生きるためであって、生命を維持するために食べるのである。そしてどうせ食べるなら「おいしい」方がいい、となった。生きるためだからといって、まずいものを食べるのはつらい。そこで人類はおいしさを追求し始めたのだ。
有史以来、人類の寿命が延びてきたのは、もちろん医学の発達などの要因もあるだろうが、「おいしい」食が増えてきたこともその一因だと思っている。たとえ本能に基づく欲求だとしても、「おいしい」という要素が加わることによって多幸感が得られ、進んで食べるようになったのだ。
その「おいしい」を軽視する美食家の言では、「食の価値において、おいしいかどうかは大した問題ではない。選び抜かれた食材で、優れた料理人の手によって作られた料理でなければ価値はないに等しい」となるのである。
美食ブームはとうとうここまできてしまったのかと、感慨さえ覚えてしまう。何年か前からその予兆はあった。このコラムでも再三指摘してきたが、食に対する過剰なほどの知識を食べる側が競いはじめたことが、今日の知識偏重につながっているのは間違いない。
はじまりは食材だった。たとえば肉。かつてはせいぜい産地やランクくらいだったのが、いつしか熟成期間だとか、温度管理、ついにはそれを扱う精肉商の「手当て」うんぬんまで言及するようになった。
あるいは魚介。ここでもまた、カリスマと呼ばれる鮮魚商への過剰なまでの賛美。テレビまでもがプロフェッショナルの極致として絶賛するのだから、いつの間にか神格化されても当然なのだろう。
おいしいということ
食語の心 第129回 柏井 壽
食語の心 第129回 柏井 壽
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