神と人。なかだちとしての羊。
-日本人と羊-

作家
大垣さなゑ

作家
大垣さなゑ

宗教

アダムとエバ。聖書を知らない人でも彼らの名を知らない人はないだろう。

神が光と闇をわけて昼と夜と名づけ、6日目に、自分のかたちに似せて男と女を創造した。『旧約聖書』巻頭の「創世記」は、ふたりがエデンの園を追われる物語を語り、つづいて、彼らの息子カインとアベルの兄弟殺しについて物語る。

弟アベルは羊を飼う者となり、兄カインは土を耕す者となった。ある日カインは地の産物をもって供え物とした。アベルは肥った羊の初う いご生児を供えた。神はアベルとその供物を顧みた。が、カインとその供物を顧みなかった。神に納受されなかった兄は、怒り、弟を殺してしまう。

『旧約聖書』は、神の意思の啓示を記した書であるとともに、神と契約した人々の歴史を語る民族史であり文学でもあり、ユダヤ教、キリスト教の「正典」である。

そのはじまりにおいて、神は、「羊を飼う者」アベルと供物の「羊」を「よし」とした。契約の民にとって「羊」が特別なものだということが暗示される場面である。

「身代わりの羊」と「神の羔」

「創世記」によれば、契約の民の始祖アブラハムは、羊を飼う者の長としてカナンの地におもむいた。「わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを祝福し、あなたは祝福の基もといとなるであろう」という神の言葉にしたがって。

子宝に恵まれなかったアブラハムは神の言葉によって男子を得た。神の言葉どおりイサクと名づけた。

あるとき神はアブラハムを試みて言った。「あなたの愛するひとり子を、わたしが示す山で燔祭(はんさい)としてささげなさい」と。

アブラハムは薪を割り、それをイサクに背負わせ、みずからの手には火と刃物をもって山を登った。

「父よ」とイサクは言った。「燔祭の子羊はどこにありますか」

「子よ、神みずから燔祭の子羊を備えてくださるだろう」

そう言ってアブラハムは神の示された場所に行き、祭壇を築き、薪をならべ、イサaクを縛ってその上にのせた。そして刃物をもった手をさし伸べ、最愛の子を殺そうとした。

刹那、神の使いが言った。「アブラハムよ! わらべに手をかけてはならない。何もしてはならない。あなたが神をおそれる者であることを、わたしはいま知った」と。

アブラハムが目をあげるとそこに1頭の雄羊がいた。彼はそれを子の代わりに神にささげた。

ここに、救いを申し出た神と人との契約が成立した。「身代わりの羊」つまり、媒介(なかだち)としての羊、証しとしての羊なくして契約は成りえない。

『旧約聖書』は、やがて現われる救主を預言した。彼は「ほふり場にひかれてゆくおとなしい子羊」のようであり、人々の咎のために苦しみ、打たれ、人々の罪を負ってみずから神の供物となるだろうと。

預言は成就した。「神のひとり子イエス」が来臨し、救いの業が成し遂げられた。これを記したのが『新約聖書』であり、「神の羔(こひつじ)」イエスを媒介とした新たな契約によって、全人類に救いの道がひらかれた。

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ラグジュアリーとは何か?

ラグジュアリーとは何か?

それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
サステナブル、SDGs、ESG……これらのタームが、生活の中に自然と溶け込みつつあります。持続可能な社会への意識を高めることが、個人にも、社会全体にも求められ、既に多くのブランドや企業が、こうしたスタンスを取り始めています。「NILE PORT」では、先進的な意識を持ったブランドや読者と価値観をシェアしながら、今という時代におけるラグジュアリーを捉え直し、再提示したいと考えています。