トゥールビヨンを自作している、すごい時計師が出てきたらしい-そんなうわさが時計関係者の間を巡り始めたのは2009年ごろのことだった。話題の主は、浅岡肇氏。独学で時計製作を身につけたことに加え、そのキャリアも異色。東京藝術大学美術学部デザイン科を卒業後、グラフィックやプロダクトのデザイナーとして活躍。しかし「リーマンショック後、仕事が減り時間ができたことで、腕試しのつもりで」08年夏からトゥールビヨンを手掛け始め、翌09年春には完成させてしまう。
その後13年に卓越した独立時計師の組織、独立時計師アカデミー(略称AHCI)の会員候補を経て、15年に会員に。13年に大型テンプをムーブメントのセンターに配した「TSUNAMI」、14年には精密加工のスペシャリストである由紀精密、OSGの2社とコラボし、日本のもの作りのレベルの高さをアピールしたトゥールビヨンモデル「Project T」など、話題作を発表していく。
そんな浅岡氏の新作がジュネーブ市内のギャラリー、アイスバーグで開催されたAHCIの発表会で披露された。モデル名は「トゥールビヨン ノワール」。その名の通り、引き込まれそうな漆黒の文字盤が印象的な、37mmケースのトゥールビヨン搭載モデル。シンメトリーにこだわったムーブメントの独創的なレイアウトだけでなく、その設計思想が興味を引く。主輪列、脱進機、裏輪列、香箱を含むベースプレートの4パートがユニット化され、メンテナンスの際、時計全体を分解することなく、必要な部分にのみアクセスできるよう工夫されている。時分針を抜くことなく文字盤を外すことや、針をセットしたまま裏輪列ユニットを外すことなども可能。かつてない合理的な設計となっているのだ。
そして圧巻は漆黒の文字盤。浅岡氏は、象牙やMOPなどの素材にも果敢にトライし、最終的に当初から構想にあったブラックダイヤルに回帰した。この文字盤には、黒漆を厚く塗り重ね文様を彫り込む伝統技法“堆黒”を応用し、特殊なラッカーを用いて塗り重ね、平滑で艶やかな塗膜が実現されている。筆者が「文字盤のベースプレートは?」と尋ねると「ないんです」との答え。ラッカーによる漆黒の塊が、そのまま文字盤になっているようなイメージと言ったらいいだろうか。この時計は多くの目利きの注目を集め、ロシア出身のAHCIメンバーのコンスタンティン・チャイキンからは「どうやって塗装しているのか、ぜひ教えて欲しい」と懇願されたという。