多くが憧れを持って語る京の街。世界文化遺産に代表される、有名社寺や、季節ごとに装いを変える景勝の地。無論それらを目的として、旅人は京都を訪れるのだろうが、もう一つのお目当てが、京都の美味にあることは間違いない。
その証しとも言えるのが、観光シーズン中、人気割烹や料亭など、日本料理店の予約困難ぶり。主立った店は軒並み予約で満席。その殆どすべてが遠来の旅人で、都人が入り込む余地などまるでなく、近年益々その勢いは増している。
これらの人気店。へたをすれば、半年以上も前に予約しなければならない。普通に考えれば、半年先にどんなものを食べたいか、など予め想定できるわけがない。それを決め打ちするというのだから、食欲とは無関係の〈食イベント〉なのだろう。
かねてから言い続けているが、食事というものが、胃袋や食欲と、どんどん懸け離れてきている。
医食同源という言葉があるように、本来、人はそのときの体調や気分によって、食べたいものが変わってくるはずである。さすれば半年先の体調など分かるわけもなく、まったく理に適わない話だというのは自明の理だ。京都を旅していて、さて今夜は何を食べようかと、想いを巡らすのも旅先ならではの楽しみだと思うのだが。
店も商売なのだから、無論寂れるより賑わう方がいいのだが、客のバランスが崩れるにつれ、料理までもが偏向してしまうのは、大いに困る。今では滅多に見掛けなくなったが、かつて京都には、一見さんお断りという仕来りを守る料理屋があった。それは何も、客を差別するなどという意ではなく、阿吽の呼吸で店と客が遣り取りするための智慧、もしくは方策だったのである。
京都で今、人気を集めているのは料亭より割烹。カウンターを挟んで、料理人と客が向き合うスタイルは、食べるというより、エンターテインメント。一座建立と言えなくもないのだが、食事のほぼすべてを店側に委ねてしまうという意味で、本来の割烹からは外れてしまっている。
祗園下河原。八坂神社の南鳥居から少し下がったところに「浜作」という店がある。この店の先々代主人、森川栄こそが、今の割烹スタイルを編み出した先駆者であり、その心は、客と主人の遣り取りから生まれる即興料理。それまでの料亭では見ることのできなかった調理風景に、客は大いに感動したと伝わる。昭和初期の話である。
爾来(じらい)八十年近く、客と板前の丁々発止が続いた。
例えば目の下一尺ほどの明石鯛(あかしたい)。俎に載せられたこれを見た客は、まずは造りに、と所望する。板前が応えて曰く、平造りか、それとも薄造りにするか、山葵醤油か、ポン酢か。客の嗜好に合わせて当意即妙に調理する。
刺し身の後のアラ身はどうするか、と板前が問う。じっくりとアラ煮にして、濃密な味わいを愉しむのもいいが、あっさりと塩焼きにして、淡白な旨みを堪能するのも捨てがたい。迷う客に、ならば半々にしましょうかと提案する。願ってもないことだと客は喜び、燗酒(かんざけ)を追加して相好を崩す。
これが割烹の醍醐味だったのだが、そこはまた、客にも相応の知識と、経験を要求される場でもあった。食材や調理法の知識を持たずに、板前と対峙できない料理店ゆえ、一見さんお断り、というシステムが必要だった。だがそれでは客数を増やすことができない。観光客にも広く門戸を広げるためには、ハードルを下げねばならない。
旅人が席を占領する、今の人気店は、おまかせ料理という手法で、それをやすやすとクリアした。
店によっては食事を始める時間まで決められ、居並ぶ客を前にして、主人の口上からスタートし、先付、八寸と続き、最後のデザートに至るまで、客たちは一斉に食べ進める。この間、客と板前の間の遣り取りは会話のみ。主人のダジャレが飛べば、客は一斉に笑いを返す。よほどのことがない限り、途中で料理が変更になることなどない。
厳しい見方をすれば、おまかせと言うより、お仕着せに近い料理なのだが、この方式なら、割烹慣れしていない遠来の客でも、安心して食べることができる。どころか、一気に食通気分にもなれる。何しろ予約困難な店のカウンター席で、主人と会話を交わすことができたのだから。
味にうるさく、料理に一家言持つ面倒な客を相手にするより、何を食べても絶賛し、デジカメに収めて広報役まで務めてくれる客の方が、店側もうんと楽だ。加えて余分な食材を仕入れる必要もなく、最低限のロスで済む。客も店も万々歳となり、この傾向は益々強くなる。
一旦、人気店のシールが貼られれば、放っておいても予約で席は埋まり、メディアも進んで掲載してくれる。その繁盛ぶりを間近で見て、これなら自分にでもできると、自信を付けた若手の料理人が、短い修業で自前の店を持つ。新店情報に飢えているメディアやブロガーが、競ってこれを宣伝し、結果、開店早々から予約困難な店と化す。
これが今の京都の料理店スパイラルである。店も街も賑わうに越したことはないが、このままでは真っ当な食べ手が居なくなるだろうと憂う。あるいは、予定調和でしか、料理を作れない料理人ばかりになってしまうのではないかと危惧する。
割烹の〈割〉は切ること。〈烹〉は煮炊きすること。即興料理だからこその楽しみがあった。客の好み、その場の空気、その日の食材の状態に応じて、臨機応変に調理する割烹の原点に戻って欲しいものだと、つくづく思う。
折しも、和食が無形文化遺産として登録された。これは、京都の料理人たちが熱心に運動した成果だと聞く。これでさらに京都の和食がイベント化されて行くだろう。本来の日本料理から遠く離れて行くに違いない。
そもそも和食とは何なのか。次回はその話をしよう。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2014年1月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています