〈食〉のブランド化

食語の心 第8回 柏井 壽

食語の心 第8回 柏井 壽

食語の心 第8回

またしても今秋、食品偽装問題が世間を騒がせた。

著名なホテルグループのメニューに誤表記があったというのがニュースの発端。運営会社のトップが記者会見を開くまでの事態になったが、単なる誤表記だったのか、それとも意図的な偽装だったのか。真相は藪の中。多くの口の端に上ったのは、誰もが〈食〉に対して並々ならぬ関心を持っていることの表れと、興味深く事態の推移を見守った。

無論過ちは正していかねばならないし、ましてや偽装などということはあってはならない。それを前提として、一方的に店側の責任と断じるべきではない、と僕は思う。

かつてホテルのレストランでコースディナーを摂ろうとして、メニューを開けば〈前菜・スープ・本日の魚料理・本日の肉料理〉としか書かれてなかった。
そこでメートルに内容を尋ねれば「魚料理は舌平目のムニエル、肉料理はビーフステーキでございます」と恭しく答え、それで客も納得していたのである。

いつのころからだろう。メニュー名がどんどん長くなってきた。
〈アルバ産白トリュフ 奥信濃産茸のリゾット 噴火湾産帆立貝のムース 富良野産人参のグラッセ サフラン風味〉
これがあるグランメゾン、魚料理の正式メニュー名だったりする。

あるいは今どきの創作和風ダイニングだと〈カリスマ漁師Aさんが一本釣りした紀州カツオのタタキに、有機栽培一筋のBさんが、手塩に掛けて育てた淡路玉葱を添えて〉などとなる。

微に入り細に入り、皿の上のすべてを、時には皿に載る前の素性や成り立ちをメニューに書き尽くす。以前なら、前者は〈帆立貝のムース〉、後者は〈カツオのタタキ〉としか記されなかっただろう。さすれば、今回のような不祥事には至らなかったに違いない。

何故こうなったのか。それは消費者が求めたからである。あるいはメディアが煽ったからである。これは本連載でも繰り返し書いてきた。
ひと皿の料理を殊更にさまざまな形容詞で飾り立てる店側の言い分を鵜呑みにして、何ひとつ検証することなく、そのままを消費者に伝えて来たのは他ならぬメディアなのである。自戒を込めて書くのだが、メディア側が連帯責任を問われてもおかしくない話なのである。

店、メディア、そして客が一体となって推し進めてきた〈食〉のブランド化が、ここに来て綻びを見せ始めたということだ。

〈食〉のブランド化。その魁(さきがけ)となったのは京都である。京野菜から始まり、京豆腐、京湯葉、京惣菜、京漬物。全てに〈京〉を冠するだけでブランドと化し、過大な付加価値を与えてきた。
全国各地に伝播して行った京料理と共に、これらの〈京〉モノも伝わって行く。だが当然ながら、真の〈京〉ものは数量的にも、季節的にも限られている。かくして〈京〉の紛い物が横行し、青ネギを九条葱と言い換える、今回の騒動に繋がったのだ。

九条葱に比べて、青ネギが品質として劣ることなどないのだが、九条葱と記せば客が喜ぶ。価格も上乗せ出来るやもしれぬ。そう店側が考える土壌が出来てしまっていた。葱は葱、でいいではないか。客から問われれば、産地を明らかにすることは当然だろうが、端からそれを謳う必要などないはずなのだが。

地方の割烹などで、春先にもかかわらず〈賀茂茄子の田楽〉などが品書きに載っていることがある。意図してか、無知のせいか、ただの丸茄子を賀茂茄子と言い換えたのだろう。京の伝統野菜である賀茂茄子は、初夏から初秋の間にしか収穫されないことは、京都人なら知っているが、それを知らない人は、京の名産が食べられると思って喜ぶ。

肉料理、あるいは魚料理というメニュー名だけでは納得出来ないというなら、客側もある程度の知識は持たねばならない。
車海老、芝海老、ブラックタイガー、バナメイエビ。これら品種の特性、適した料理法、おおよその価格を知った上で料理店に足を運べば、惑わされることなどない筈だ。
と同様に、京都で美味しいものと出会いたいなら、幾らかの予備知識が要る。もしくは心構え。

当たり前のことだが、京都の店すべてが美味しいわけではない。むしろ、常に旨いものを食べられる店の方が少ない。そんな数少ない美食の店に巡りあうコツ。その第一は「〈京〉の文字に惑わされない」である。

京都に在って、暖簾や看板の〈京〉のひと文字は、露ほどの意味も持たない。都人には不要とも思える〈京〉を大書するのは、偏(ひとえ)に観光客に向けてのアピール。

――朝採れの京野菜をふんだんに使い、老舗の京豆腐、名店の京湯葉を贅沢に使用した、当店自慢の京料理を――

などと掲げていれば、遠ざけるに限る。文字だけではない。如何にも京都らしい和服姿で、アヤシイ京言葉を操り、必死で呼び込みをする店も避けた方が無難だ。先の偽装問題と同じく、それらしく見せようとする店ほど、紛い物であることが多い。

第二に「星の数などあてにはならない」だ。フレンチならともかくも京料理という文化を軽々に格付けなど出来るものではない。三つ星だからと言って、誰にでも奨められることはなく、星のひとつもなくても、遠来の客を是が非でもご案内したい店がある。

都が置かれて1200年を超えた京都の街。そこには長い伝統と歴史に育まれた、類まれな美味が潜んでいる。
一方でしかし、それにあやかろうとして、形だけをなぞる店も少なくない。両者の差異を見極めるのは、容易いことではない。
有り体に言えば、場数を踏むしかない。幾度となく失敗を繰り返して後、ようやく出会えるのが真の京都。近道も、抜け道も、ましてや裏口などない。だからこそ、繰り返し訪ねたくなるのである。次回も、そんな京都の話を続けよう。

柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。

※『Nile’s NILE』2013年12月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

ラグジュアリーとは何か?

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