何度も書いてきたが、長期にわたるコロナ禍は、多くの人々を苦しめたが、その間に学んだことも少なくない。
とりわけ「食べる」ということの本質を見つめ直す、いい機会になっただろうことは間違いない。
飲酒を伴う外食や、多人数での会食などは、長期間にわたって自粛を強いられ、やむなく内食に専念した向きも多かった。
コロナ禍以前は、おいしいものを食べたくなれば外食、ふだんの家ご飯は簡素に、というパターンが多く、その形が崩れてしまったことに、当初はたいていが戸惑った。
時短だとか、手抜きのヒントを教える料理本やレシピは売れても、手間ひまを加えて作る料理のテキストはまったく人気がない。ずっとそんな時代が続いていたから、出来合いの総菜や簡易な料理に頼ることを当然としていた家庭で、いきなりごちそうを求めても無理というものだ。
そんななかで、長期戦になると読んだ店側は、店内飲食を自粛して、持ち帰りや宅配に注力するようになり、やがてそれが、外食の代わりを果たすようになった。
それもしかし、限られた店だけのことで、種が尽き始めると、高級食材を取り寄せ、家庭でごちそうを作るようになったのが、第二段階。
家庭で作るごちそうについては、以前にも書いたように、プロにしかできないもの、素人でもさほど難しくないものと、ふた通りに分別できるようになった。
今回はその後者の続きをしよう。
料理は料理のみにて楽しむものにあらず。そのことを少しずつ検証してみる。
どんなに上手にご飯が炊けたとしても、それを盛る飯茶碗がありきたりのものではつまらない。格別高価なものでなくてもいいが、ご飯をよそったときに映えるものを使いたい。
場末の居酒屋ならいざ知らず、割烹や料亭では料理を盛る器にも、心をくだいているはずだ。同じ料理でも、器使いによっておいしく見えたり、そうでなかったりする。
食通で名高い北大路魯山人の言葉を借りるまでもなく、器は料理の着物なのだ。
炊飯器まかせで勝手に炊きあがったご飯なら、100円ショップの器でもさほど気にならなかったものが、丹精込めて炊いたご飯だと、なんだかご飯が可哀そうに見えてくる。
そこで少しばかり真っ当な器を入手し、それによそってみると、殊のほかおいしく感じる。
ここに至って、秀でた店で食べる料理がおいしいのには、器もひと役買っていたのだと気付く。
コロナ禍にあって、食器がよく売れていると聞いて、我が意を得たという思いだ。
近年は料理を「映え」という言葉で評価することが少なくないが、それは過剰なまでのボリュームや、子供だましの飾り付けが目を引いていただけで、使っている器や盛り付けの技巧などはほとんど無視されてきた。
家庭という落ち着いた環境で食事をするなかで、ようやく真の「映え」に目覚めたのは喜ばしいことだ。
そしてもう一つ。おいしいと感じるのに大切なのは、和みだということ。コロナ禍でこれに気付いた人も決して少なくないだろう。
一人で食べるならいざ知らず、外食をするにあたって、黙食なる言葉を作りだし、食事中の会話を自粛せよと指示され、味気ない思いをさせられ、「和み」もまたおいしさの条件であることに気付いた。
家族や友人、仕事仲間たちと食事をともにする。その本来の目的は、会話を通じて互いの理解を深め合うことにある。
会食の「会」は会話の「会」だと思っている。会話が主で、食は従というのが本来の姿のはずだ。
極端な美食ブームのせいで、長い間その本来の目的が見失われ、希少な食ばかりに耳目が集まり、本末転倒の様相を呈していた。
それはグルメブロガーたちのブログや、SNSへの投稿を見れば一目瞭然で、会食と言いながら、もっぱら料理の内容にしか興味がないようで、いびつな会食になっていたのは至極残念なことである。
人が料理を食べておいしいと感じるには、食そのものだけでなく、器や会話を通じて心を通わせる、和みのひとときが、きわめて重要なことだと気付けたなら、それはコロナ禍がもたらした数少ない恩恵だと言えるだろう。
食語の心と題して書いてきた本コラムも次回で100回を迎える。この間、一貫して綴(つづ)ってきたのは、人がものを食べることの本筋を見失ってはいけないということ。より一層その思いを強くする昨今である。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。大阪歯科大学卒業後、京都市北区に歯科医院を開業。生粋の京都人であり、かつ食通でもあることから京都案内本を多数執筆。テレビ番組や雑誌の京都特集でも監修を務める。小説『鴨川食堂』(小学館)はNHKでテレビドラマ化され続編も好評刊行中。『グルメぎらい』(光文社新書)、『京都の路地裏』(幻冬舎新書)、『憂食論 歪みきった日本の食を斬る!』(講談社)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2021年11月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています