「腕時計投資」という名の腕時計バブル
最近「腕時計投資」という言葉に象徴される、腕時計を資産として捉えようとする動きが顕著だ。賛否両論が渦巻く中、最も注目を集めている一つがパテック フィリップの「ノーチラス5711/1A」だろう。
昨年生産終了となったが、定価は約400万円。それが現在の二次流通市場では2,000万円台半ばで取引されている。昨年発表されたオリーブグリーンダイヤルの「ノーチラス」に至っては、昨年7月のアンティコルムのオークションで定価の約13倍となる約5400万円で落札されたことが話題となった。それが現在検索すると9,000万円台。昨年12月にはティファニーブルーの「ノーチラス」が、フィリップスのオークションに出品され、落札額はなんと約7億3,000万円‼
こう書くと「腕時計投資」にがぜん興味を持たれる方もいるだろうが、本来の価値を大幅に超えた腕時計バブルのようにも映る。こんな状況下では、揺るぎない価値を持った、適正価格のものに目を向けたい。パテック フィリップであれば、旗艦的存在というべき手巻きクロノグラフキャリバー搭載モデルを挙げたい。
揺るぎない価値を持った旗艦的存在
パテック フィリップが、完全自社開発・製造の手巻きクロノグラフキャリバーCH 29-525 PS「レディ・ファースト・クロノグラフ7071」に搭載して発表したのは2009年のことである。このキャリバーの開発は、同社にとって悲願と言っても過言ではなかった。
なぜなら、それまでの手巻きクロノグラフキャリバーは、ムーブメントサプライヤーが製造したエボーシュと呼ばれるベースキャリバーを、パテック フィリップ社内でカスタマイズしたものだったのだ。
パテック フィリップが、クロノグラフ腕時計の製造を本格化させるのは1930年代末。このときエボーシュとしてヴァルジュ社のキャリバー23VZが採用される。これをベースに永久カレンダー搭載クロノグラフ1518や2499、スプリットセコンドを加えた2571などの名機が生み出されていく。
このキャリバーは、50年以上採用され続けながら、85年をもって終了する。ヴァルジュ社が74年にすでに生産を終え、ストックが尽きたこと が理由だった。
ちなみに、その2年後の87年、例外的にプラチナケースの2499が2本のみ製作される。一つはパテック フィリップ・ミュージアムが所蔵し、もう一つは89年4月、アンティコルムによるパテック フィリップ創業150周年記念オークションに出品され、 約3,355万円で落札された。その個体は、後にエリック・クラプトンが所有したことでも知られている。これが2012年11月12日クリスティーズで約2億7,000万円で落札されたことは、時計業界を越えて、一般のニュースでも大きく取り上げられた。
その後、ヴァルジュ23VZに代わって採用されたのが、ヌーベル・レマニア社のキャリバー2310をベースとするCH 27-70だった。86年に永久カレンダーを加えたCH 27-70 Qを搭載した3790モデルを発表。98年には、クロノグラフのみの5070モデルを登場させる。
この頃から、パテック フィリップが、手巻きクロノグラフの完全自社開発・製造に着手しているとのうわさが広がり始めていた。
同時期から、スウォッチグループがエボーシュをグループ外に供給縮小や停止などの方針を打ち出し始め、物議を醸していた。ヌーベル・レマニア社は、前身のレマニア社時代にオメガを中心とするSSIHグループに所属し、オメガ「スピードマスター」のキャリバー321、861なども手掛けた。
しかし81年にSSIHを離れ、ヌーベル・レマニア社として再出発を図る。92年にブレゲ傘下となるが、99年にブレゲがスウォッチグループに買収された際、ともに同グループに入る。パテック フィリップとしては、独立した安定的な生産体制のために、自社製手巻きキャリバーの開発が急務となった。
かくして約10年の時間を費やし、6つの技術特許を取得した新しい手巻きクロノグラフキャリバーCH 29-535 PSがベールを脱ぐ。
現在はクロノグラフのみの5172、永久カレンダー搭載クロノグラフ5270、スプリット秒針クロノグラフ5370、両方を搭載したグランドコンプリケーション5204などによって、この手巻きクロノグラフキャリバーのファミリーが構成されている。
いずれも、バブルに踊らされることのない、不朽の価値を持ったモデルであることを保証しておきたい。
まつあみ靖 まつあみ・やすし
1963年、島根県生まれ。87年、集英社入社。週刊プレイボーイ、PLAYBOY日本版編集部を経て、92年よりフリーに。時計、ファッション、音楽、インタビューなどの記事に携わる一方、音楽活動も展開中。著書に『ウォッチコンシェルジュ・メゾンガイド』『再会のハワイ』(ともに小学館)ほか。