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YMOという記憶

雑誌編集者の根本恒夫さんは、YMOのL.A.公演に日本からの唯一の取材媒体として同行するなど、結成当初から行動を共にしていた。彼の貴重な証言を伺おう。

Text Tsuneo Nemoto

雑誌編集者の根本恒夫さんは、YMOのL.A.公演に日本からの唯一の取材媒体として同行するなど、結成当初から行動を共にしていた。彼の貴重な証言を伺おう。

(左)YMOのロサンゼルスライブレポートとメンバーへのインタビュー記事。『GORO』79年9月27日号に掲載/(右)YMO「散開」を最初に表明する媒体としても『GORO』が選ばれた。84年1月26日号「Y.M.O.最後の証言」にメンバー、関係者のコメントを掲載
(左)『GORO』79年9月27日号に掲載された、YMOのロサンゼルスライブレポートとメンバーへのインタビュー記事。
(右)YMO「散開」を最初に表明する媒体としても『GORO』が選ばれた。84年1月26日号の「Y.M.O.最後の証言」と題された記事では、メンバー、関係者のコメントを掲載。

「YMOが広く一般に受け入れられることはないだろう。でも、世界中には少人数ながらわかってもらえる観客がいるハズで、日本、アメリカ、ヨーロッパと各3万人ぐらいずつレコードを買ってくれる人がいればやっていける」

しかしこの間、日本では細野の思惑をはるかに超え、『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は累計100万枚もの爆発的ヒットを記録。YMO現象は独自に『増殖』を始め、それらはメンバーに『パブリック・プレッシャー』を与えていた(80年2月発売の『パブリック・プレッシャー』、同6月発売の『増殖』はオリコン1位を獲得)。

この巨大化する奇妙な構造を世界に広げるべく、宿泊するホテルはすべて一流というように大金をかけて行われたのがYMO第2次世界ツアーであった。80年10月3日から11月18日まで、イギリス(5カ所)、ドイツ、オランダ、スウェーデン、フランス、イタリア、アメリカを巡る大規模ツアーで『GORO』編集部は特別に、全行程への取材が許可され、三浦憲治カメラマンは全工程に、私も26日間ツアーと帯同することができた。会場は、パリのル・パラスのように格式の高いオペラハウスから、数百人収容のライブハウスまでさまざまだが、長距離移動、リハーサル、ライブ、その合間に多数の取材や撮影、夜はパーティーと、メンバーの体調が万全ではないにもかかわらず、ツアーは休息と自由がほとんどない過酷なものであった。

ロンドンでは多くのニューウェーブ系ミュージシャンやカウンターカルチャー系のスノッブな人間たちが集まってきたし、ストックホルムの楽屋にはABBAの四人が顔を出した。時代の最先端を求めるクリエーターには受け入れられても、あくまで作られたツアーであり、YMOがたった一回のツアーで一般客へと浸透するはずもなく、メンバーには疲労だけが蓄積していった。結局、YMOブームが世界へ広がることはなかった。

ヨーロッパを後にしたYMOには、アメリカ到着と同時にあらゆる緊張感から解放された、安楽な気分が訪れたという。L.A.のプールサイドで通り過ぎる女の子に声をかけそうな幸宏と細野、床屋で気分一心の幸宏、サンフランシスコの夜景の中の三人。『OMIYAGE』に掲載されている写真は、どれも圧倒的な解放感に満ちている。ツアーバスに乗り込む寸前の細野の後ろ姿には、つらいツアーを経て、「YMOをやり終えた」ような安堵感さえ漂っていた。

帰国後、YMOはビジネスから解放され、憑(つ)き物が落ちたようにやりたい音楽に集中し、『BGM』と『テクノデリック』を製作した。私個人としては『BGM』でYMOは完成し、『浮気なぼくら』はオマケだと思っている。

83年秋ごろに細野からYMOを解散するという話を聞いた。その散開宣言の記事リード文、以下のようなことを私が書いたことは、この原稿を書き始めるまで全く忘れていた。

「マジックにはマジシャンと観客が必要だ。が、しかし、マジシャンが常に魔術(マジック)をかける側で、観客がかけられる側とは限らない。ときにマジシャン自身が自分の魔術にかかってしまうところが魅力的で危険な魔術の魔術たるゆえんなのだ。YMOの三人の魔術師たちはいま、世界にひとつの魔術をかけ終え、舞台を降りた。三人の魔術師たちもかつて、自らの魔術を扱いかねていた時代があった。が、幸い自分の魔術にかからずに済んだようだ。彼が産んだ、白でも黒でもない、イエローマジックが、世界規模で再び復活する日は遠くないだろう」

78〜83年、YMOは、結成から散開までのこの5年間で完結したわけではなかったし、その後、93年の再結成(アルバム『テクノドン』)を経てもなお完結しなかった。彼ら三人が、本当の意味でYMOに決着をつけたのは、2010年以降であり、それは彼らにとって長い旅路だったと思われる。20年代に入ると多くのYMO関係書が出版され、ネット上でも驚くほど詳細な資料が読めるようになった。これら、新世代によるYMO追体験は、ますます盛んになってゆく一方、YMO時代の当事者たちは、次第に年老い、発信力も記憶も薄れてゆくに違いない。その当事者の一人として、かの怒濤の時代の記憶を少し呼び起こしてみた。

資料協力/ Tokyo Techno Association、根本恒夫

根本恒夫 ねもと・つねお
1948年、東京都生まれ。小学館の雑誌『GORO』『写楽』などの編集部に在籍、YMOの写真集『OMIYAGE』『SEALED』なども手掛けた。学年誌や『Sabra』などの編集長を歴任。リタイア後の現在は、ライブハウスでのオープンマイクやセッションに積極的に参加するなど音楽活動に没頭中。

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