英国人は冒険が好きだ。七つの海を制したこの国にはさまざまな冒険ストーリーが残されている。すぐに思い浮かぶのが18世紀の海洋探検家ジェームズ・クック(通称キャプテン・クック)。当時の海洋技術で太平洋まで3度の航海をし、ハワイ諸島まで発見しているのだから恐れ入る。あまり知られていないが、そんな英国人の“冒険物語”が、ここ日本にもある。
英国人が集う避暑地へ
「夏は日光に外務省が移る―」
こう言われたのは、1900(明治33)年ごろの話。日光へ避暑に訪れる外国人はかなりの数であった。ヨーロッパ各国の在日外交官や、起業家などが集う光景は、ここが日本であることを疑うほど。中でも英国紳士たちが趣味を嗜む場として、明治の中ごろから昭和初期まで愛されたのが奥日光・中禅寺湖である。
今回は、同じく英国紳士に愛され続けるジャガーで、外国人たちでにぎわった古き良き時代をのぞきに旅へ出た。足としたジャガーXKなら、この時代に冒険心たっぷりに未開の地へと足を延ばした彼らと同様、その時々を大切に自分らしく生きていくことを教えてくれるはずだ。
この地の歴史を紐解けば、もちろん英国人の姿が見えてくる。その最初の人は、駐日英国公使を務めたハリー・パークスである。
明治維新直後、在日外国人には自由な旅行が許されていなかった時代に、日本国内を旅することができたのは外交官であった。そうした中、1870(明治3)年、日光に最初に訪れたのがハリー・パークス夫妻。その2年後、英国公使館の職員であるアーネスト・サトウが日光を訪れ、横浜の英字新聞「ジャパン・ウィークリー・メイル」で中禅寺湖付近を旅した印象を4回にわたって紹介し、外国人の間にその名を浸透させた。このことを考えると、パークスこそがジャントルマンの“遊び場”として中禅寺湖を見いだした、その人なのである。
グラバーは1838(天保9)年、スコットランドのフレーザーバラに生まれ、20歳で上海へ渡って貿易を学ぶ。23歳の若さでグラバー商会を設立し、日本で艦船、武器、弾薬を商った。神戸、大坂、横浜にもグラバー商会の支店を設けるほどの成功を収めるが、明治に入ると武器などの需要がなくなり、グラバー商会は倒産。その後、三菱へ移籍したグラバーを岩崎弥之助が東京本社に召還し、芝公園に住まいを構えた。この時、グラバー47歳。“老い”を感じ始めた彼は、望郷の念にかられていた。ちょうどこのころ中禅寺湖のうわさを耳にする。更に周辺の川では、マス釣りが楽しめるという情報を得ると、幼いころ興じたフライフィッシングを思い出した。
「またフライフィッシングを楽しみたい」
おのずとグラバーの心は中禅寺湖へと向いたのだろう。折しも、1890(明治23)年の夏には、上野-日光間で鉄道が開通。グラバーが日光へ訪れたのもこのころだという。
グラバーと中禅寺湖
そして、もう一人、中禅寺湖に足しげく通った人物がいる。それは幕末期に坂本龍馬や伊藤博文ら、日本を動かした人々と交流を深めた、大貿易商トーマス・B・グラバーである。
長崎港を一望できる山手の高台にある、観光地としても有名な「グラバー邸」に暮らしていたはずの彼が、なぜ中禅寺湖へ来るようになったのか。波乱に富んだ彼の人生を簡単に振り返りながら、中禅寺湖との出合いまでを見てみる。
カントリージェントルマンの嗜み
期待を胸に中禅寺湖へ向かったグラバーの目に映った景色は、故郷スコットランドを想起させた。断崖絶壁に奇石が迫ってくる道中、どんよりした中禅寺湖、そして何よりも大小の滝が連なったような急流の湯川もまた、故郷スコットランドの風景そのものであった。
一度でグラバーはこの地に魅了された。すぐに釣りざんまいの生活を始め、とりこになったという。1892(明治25)年には、湖畔の西六番に別荘を建て、更に釣りを楽しむため、湯川に米国産のカワマスの放流を計画。このときグラバーが全額を負担して、日本で初めてカワマスが移入されたのだ。
グラバーが別荘を建てると、後を追うようにしてイギリス、フランス、イタリア、ベルギーなどの大使館の別荘が湖畔の森の中に建ち、国際的な避暑地として、更ににぎわいを見せる。
中禅寺湖の社交クラブ
中禅寺湖の“英国紳士物語”の中で欠かせない人物がもう一人いる。英国人実業家を父に持ち、日本で生まれ育った、ハンス・ハンターである。彼の功績は「東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部」の設立だ。
ここに別荘を持つ各国の大使や日本国政府関係者に声を掛け、自らの趣味であるフライフィッシングやヨット、ポロ、それに和船レースなどで“遊ぶ”倶楽部を設けた。アングリングとは英国流フライフィッシングのことである。フライフィッシングは16世紀からカントリージェントルマンの嗜みとされてきた。まさにこれは英国的ジェントルマンズクラブである。英国では紳士が集うクラブが高い階級の中で組織される。日中はポロやゴルフに明け暮れ、夜はスコッチ片手にチェスやバックギャモンをするといった感じだ。
今回、あえてジャガーで中禅寺湖までやってきたのも、そんな意味合いを含んでいる。20世紀以降、自動車産業が発達したジェントルマンズクラブでは、ジャガーやレンジローバーのようなクルマにスポーツギアを詰め込み、乗り付けるのが一つのスタイルとなったからだ。実際、中禅寺湖畔で見るジャガーはエレガントで、周りの景色をガラリと変える。まるで英国でのワンシーンのようだ。
XKはスポーツタイプなのでパワフルなエンジンが積まれ、それに見合ったセッティングが施されている。ジャガーの歴史を振り返ると、「東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部」は時とともに、華やかになっていく。いつのまにか、在日外国高官や著名人の別荘仲間、皇族、華族、政財界要人が交流する社交場となった。
まさにここ奥日光が国際色豊かな別荘地、避暑地として最盛期を迎えるのである。
残念ながら現在の中禅寺湖には、そうした倶楽部はなく目に出来るのはその足跡だけ。イタリア大使館別荘記念公園は、当時の空気を肌で感じられる。
しかし、イギリス大使館の別荘は建物が残っているだけで、フランスとベルギー大使館の別荘は現在も使われている。また、倶楽部があった西六番館も焼失してしまい、当時のマントルピース(暖炉)が物悲しく立つばかりだ。
こうした時代の流れをずっと見守ってきた中禅寺湖や男体山、日光二ふた荒ら 山神社は、今もそこに凛として存在する。いうなれば、英国人のグラバーらが郷愁の念を抱いた景色が、今も変わらずそこにあるのだ。
英国人が発見し、育くんだ奥日光・中禅寺湖。それと英国の自動車史を代表するジャガーのマッチングは実に奥深い。優雅なエクステリアデザインばかりか、なめしの効いたレザーシートなどは英国そのもの。そこに身を置くとガラス越しの景色も少々趣が変わるものである。
「なるほど、今日はもう少し遠くまで足を延ばそうか……」
そんな気にさせるのは、このクルマが英国人ならではの冒険好きの血統だからかも、しれない。
※『Nile’s NILE』2012年4月号に掲載した記事をWEB用に編集し掲載しています