『お茶につながる街道』
一服の茶は、時に猛る心を静め、時に疲れた心を慰めてくれる。
戦国の武将が茶の湯を好んだのも、乱世を生き抜く一種の処世術だったのかもしれない。
熱い茶をふうふう吹きながらそんなことを思い、ふと浮かんだ旅先が静岡県掛川市――。
恵みの雨――名車・名城には、雨がとてもよく似合う。Audi A8は激しい雨の中、ワイパーを加速させ、雨音を吸収しながら、勇猛華麗に走る。やがて前方に、雨空を突いて立つ掛川城の白壁輝く勇壮な姿が見えてきた。
東西勢力のど真ん中で
四足門をくぐり、右手に三日月堀・十露盤堀を眺め、さらに段差の大きな石段を上って掛川城天守閣へ。一段ごとにその姿が大きさを増しながら、眼前に迫ってくる。入り口手前に「霧噴き井戸」がある。
1569(永禄12)年、徳川家康が攻め込んだ時に、ここから立ち込めた霧が城をすっぽり隠したと伝えられる。実際、家康は大軍で包囲しながらも、武力で城を落とすことはできず、やむなく講和で開城するに至ったのだった。掛川城は実戦によってその要害ぶりを実証したわけだ。名城と呼ばれるゆえんである。
もっとも当時の掛川城はまだ平城。天守閣が建てられたのはその約30年後、全国を平定した豊臣秀吉によって家康が関東に移封され、同時に当時の城主だった家康の重臣・石川家成が退いて後に入城した山内一豊の時代である。
司馬・ヱセ郎の『功名が辻』でよく知られる一豊は、妻千代の内助の功もあって、信長・秀吉・家康の3人の天下人に巧みに仕え、戦国の激烈な権力闘争を乗り切った武将だ。戦国時代、東西勢力の真ん中にある戦略地点・掛川城では、45歳からの10年間を城主として幾多の治績を上げる活躍を見せた。そして関ヶ原の戦いが起こるや、家康に加担して、ついには掛川5万石から土佐20万石の大名へと栄転を果たしたのである。
旅の難所を茶で乗り切る
その一豊が、会津の上杉景勝討伐に向かう家康を、茶亭を建ててもてなしたと伝わる寺がある。東海道の三大難所の一つに数えられる小夜の中山の峠の名刹久延寺だ。江戸時代、この周辺には多くの茶店があり、旅人の疲れを癒やしたという。Aidi A8を駆って、斜面のそこここに茶畑が広がる山に分け入り、クワトロシステムによる安定した走りを楽しみながら走るうち、茶所・掛川の黎明期がここにあるように感じた。
そこから県道に出て、日坂宿を目指した。東海道五十三次の25番目の宿場町だ。今は門のみとなった本陣跡から宿に向かって旧東海道をゆっくり走ったが、一見すると「普通の住宅街」だ。ただよく見ると、家々の前に昔の屋号を書いた木札が立て掛けられている。それら普通の住宅が連なる中に、江戸時代をしのぶ建物が散見される。往時の宿場町の風情がひっそり息づいているという印象である。
今も旅館末広亭として営業する池田屋、最後の問屋役を務めた伊藤文七の商家と土蔵・藤文、庶民が泊まる旅籠屋で2階が遊郭だった萬屋、精巧な木組みと細かな格子が特徴的な格の高い旅籠屋の川坂屋……先の大井川の川止めで足止めを食う旅人が多く、旅籠屋が増えたという。
Audi A8 L W12 quattro
ボディー:全長5275×全幅1950×全高1465㎜
エンジン:6.3ℓ W型12気筒DOHC
最高出力:368kW(500ps)/6200rpm
最大トルク:625Nm(63.7kgm)/4750rpm
駆動方式:クワトロ(フルタイム4WD)
トランスミッション:電子制御8速AT(ティプトロニック)
価格:20,610,000円~
問い合わせ アウディ コミュニケーションセンター
フリーダイヤル0120-598106 www.audi.co.jp
『真田家所縁の地、信州 北国街道』
北国街道 海野宿
海野宿は遠く1200年余り前の奈良時代には海野郷と称し、早くから文化の開けた地である。真田家は、この海野の高台に居を構えた東信濃の名門・海野氏の流れをくむ。
中央を神川が流れ、周辺には田畑が広がる。その盆地全体をにらむ中心部の小山に築かれた真田本城跡を目指し、アウディ A8を走らせた。急な坂道を、平らな道を滑るかのように駆け上がった先に開けた、わずかに土塁の残る城跡は、松風の吹き抜ける、見晴らしのいいところ。眼下に小県と北上州を結ぶ上州道、遠くに真田氏の外城であった砥石城や矢沢城などが一望できる。領地に目を光らせる物見台といった風情だ。
Audi A8 4.2 FSI quattro
ボディー:全長5145×全幅1950×全高1465㎜
エンジン:4.2ℓ V型8気筒DOHC
最高出力:273kW(372ps)/6800rpm
最大トルク:445Nm(45.4kgm)/3500rpm
駆動方式:クワトロ(フルタイム4WD)
トランスミッション:電子制御8速AT(ティプトロニック)
価格:11,710,000円~
問い合わせ アウディ コミュニケーションセンター
フリーダイヤル0120-598106 www.audi.co.jp
幸隆はこの真田の郷を一度、村上氏に奪われている。それは、武将ひしめく信濃が隣国・甲斐に攻め入られて本格的な戦国の騒乱に巻き込まれていったころのこと。海野を本拠とする海野一族が1541(天文10)年、武田信虎、諏訪頼重、村上義清の連合軍に撃破されたのだ。世に言う「海野平の合戦」である。これにより海野氏の総領家は没落し、その一族であった真田幸隆は上杉氏を頼って上州へ逃げたという。
しかし、幸隆はほどなく、内紛により信虎を追放して息子・信玄の時代になった武田に出仕している。『甲陽軍艦』では、「他国を浪々している侍大将を家来に召し出せば調略に都合がよく、また本領復帰のために必死に働くだろう」という軍師・山本勘助の進言があって、信玄が昌幸を召し寄せたと伝えられる。事の真偽はともかく、幸隆は信濃攻略において、例えば「砥石崩れ」と称される信玄の数少ない敗戦で攻略できなかった砥石城を独力で乗っ取るなど、期待以上の働きをして武田の将としての地位を固めた。もちろん、真田本領の奪還にも成功したのである。
もう一つの故郷・海野宿
真田氏のルーツを訪ねるという意味ではもう一つ、忘れてはならない場所がある。海野宿だ。先に触れたように、真田氏は東信濃の名門、海野氏の流れをくむとされている。さっそく山道を下り、千曲川のほとりに開けた海野宿へ向かった。
まずは、海野氏の始祖・広道公が四柱の祭神の一人として祭られる白鳥神社へ行き、柏手を打つ。案内板を見ると、「後に海野氏の子孫である真田氏により、篤く尊崇を受けた」とある。樹齢700年を超える御神木のけやきを始め、境内の古木たちは皆、戦国時代の生き証人にも映る。
この鎮守に守られた海野宿は、奈良時代には海野郷と称され、早くから文化の開けたところだ。また『源平盛衰記』に、1181(治承5)年に木曽義仲が海野氏を中心に白鳥河原で挙兵し、平家討伐の旗を掲げて京都へ攻め上ったとの記述も見られる。北国街道に開設された宿駅となったのは1625(寛永2)年のことだが、繁栄の歴史は長い。
そして今、海野宿は昔ながらの街道模様を映す歴史の町並みで人気を集めている。江戸時代の旅籠屋造りやかやぶき屋根の建物、明治以降の堅牢な蚕室造りの建物、中央を流れる用水路に石橋、その両側に立ち並ぶ海野格子、卯建の上がる白壁の町屋など、伝統的な景観は、歩くほどに、眺めるほどに心沸き立つ魅力に満ちている。その町並みに、Audi A8の姿がまたしっくりなじむ。時を超えた普遍の美が共鳴を起こすのかもしれない。
松代城
かつて松代城は「海津城」と呼ばれ、武田氏北信濃の要の城だった。以後、城主が目まぐるしく替わったが、真田信之が入封して以降は明治まで、真田氏の統治が続いた。
幸村、北国街道を走る
旅の足を、真田家の3代目・昌幸の次男として生まれた幸村の時代に向けてみよう。
幸村は一時、人質として上杉景勝のもとへ送られている。これは、前述した沼田城をめぐる徳川との対立に際して、上杉と同盟を結んだことによる。景勝の養父・謙信が信濃出兵のための軍用道として整備した北国街道を北進して越後へ。上田合戦となって上田に取って返し、大勝利を収めた後に再び越後へ。さらに1587(天正15)年ごろには越後を出奔して上田に戻り、今度は天下統一を進める秀吉に出仕するために大坂城へ。
幸村の流転は続いた。一方で、父・昌幸と兄・信幸は秀吉の指示により家康の家臣となっている。
上杉と豊臣と徳川のはざまで揺れた真田家。幸村は天下取りの戦いが続く戦国の世そのままの激震に駆られるように、何度も北国街道をひた走ったのではないだろうか。
秀吉が病没した後、天下は再び大きく揺れる。秀吉の遺子・秀頼を立てて行われた中央政治にあって、圧倒的軍事力を持つ家康がしだいに実権を握っていったのだ。
これに対して、石田三成らが水面下で反徳川勢力を組織した。両者の対立が表面化したのは、1600(慶長5)年に家康が命令に従わない上杉景勝の討伐に動員令を発したことがきっかけだ。東国の多くの大名がこれに呼応し、真田父子3人も参陣して徳川軍に合流しようとしていた。が、途中の下野犬伏(栃木県佐野市)で陣をとっていた昌幸の元へ、豊臣家奉行たちから書状が届く。「秀頼をもり立てて家康を討つべく挙兵する。味方されたし」というのだ。
※『Nile’s NILE』2013年1月号に掲載した記事をWEB用に編集し掲載しています