キャビノチェと貴族のような友情が育むマスターピース
その夕刻、ジュネーブの市街地に位置するF.P.ジュルヌのマニュファクチュールに一人の紳士が姿を見せた。
その名をステファン・バルビエ・ミューレーという。ベントから深紅の裏地がのぞく粋な仕立てのスーツに、スポーティーなスニーカーを合わせた着こなしが、この人物の洗練されたライフスタイルをうかがわせた。彼の母方の祖父、ヨーゼフ・ミューレー氏は、アートコレクターとして世界的に名を馳せた人物だ。
父、ジャン-ポール・バルビエ・ミューレー氏は、不動産ビジネスで成功を収める一方、義父ヨーゼフ氏に共鳴し、アートコレクション、とりわけアフリカ、オセアニア、アジアなどのプリミティブ・アートに力を注ぎ、7000を超える彫刻、マスク、テキスタイルなどを蒐集。これらの作品は、1977年に開設されたジュネーブのバルビエ・ミューレー・ミュージアムに収蔵されている。
ちなみに、2007年にヴァシュロン・コンスタンタンが、プリミティブ・アートのマスクをモチーフにした工芸性の高い4本セットのコフレを世界限定25セットで販売したが、このマスクはバルビエ・ミューレー・ミュージアムの収蔵品だった。
現在もミューレーファミリーは、ジュネーブの不動産の多くを所有する一方、アート後援者としての活動を展開。ミューレー氏は、18世紀のフランス絵画のコレクションを進める一方、ロシアン・アートの歴史にも造詣が深い。そんなミューレー氏が、ジュルヌ氏と親交を結んだのは2006年からだという。
「ある財団のチャリティーパーティーで、初めて顔を合わせたんです。フランソワ︲ポールはすでに独立時計師として有名でしたし、エクスクルーシブで希少性の高いブランドであることも認識していました」
一方、ジュルヌ氏。「彼の名前は知っていましたよ。当時私は、彼の会社が所有するマンションを借りて、住んでいましたからね(笑)」
その後、ミューレー氏は初期モデルの「オクタ・パワーリザーブ」を皮切りに、100分の1秒計測が可能な「サンティグラフ・スヴラン」、ジェイド製ダイヤルの限定モデル、昨年発表された「クロノグラフ・モノプッシャー・ラトラパンテ」に至るまで、数々のモデルを自身のコレクションに加えながら、個人的にも親交を深め、東京、北京、台湾、サンクトぺテルブルクなどを共に旅する仲に。2014年には、二人のコラボレーションによる10本限定モデル「モザイク」を誕生させている。ミューレー氏はこう回想する。
「当初、彼は、コラボレーションは絶対にやらない、と言っていたんです。ハリー・ウィンストンとのコラボプロジェクト『オーパス・ワン』は、彼の名を世に広く知らしめることになりましたが、本人には苦い経験でもあったようです。ですが、私は時計製造に関してあるアイデアがあって、相談をしていました。彼は天才ですからね、話し合っているうちに、どんどん原案とは変わっていきましたが」
その結果、19世紀のロシアで生まれながら20世紀には途絶えてしまった象嵌技法を、ミューレー氏の研究に基づいて復活させ、ケースや文字盤に採用し、F.P.ジュルヌのゴールド製キャリバーを搭載したモデルが完成する。
「私の父は、腕時計はアートの一部ではない、という考えを持っていました。しかし、私はそれには反対でした。病床にあった父に、完成した時計を手渡した時、大変喜んでくれたことが強く印象に残っています。父は間もなく帰らぬ人となりましたが、フランソワ・ポールが製作を急いでくれたことに感謝しています」
16世紀に始まるジュネーブの時計製造の歴史は、キャビノチェと呼ばれた優れた技術者と、彼らを理解し庇護した王侯貴族との関係性の中で成熟し、発展を遂げてきた。量産化とビジネスばかりが重視される現代のウォッチシーンで、そんな信頼関係はすっかり失われてしまったかに思われたが、ここに友情という形で残っていたとは。ジュルヌ氏とミューレー氏の間に醸成された深い絆。それが、次なるマスターピースを生み出す揺り籠となっている。
「次なるコラボモデルの企画もありますが、これはビジネスではなくライフワーク。求める素材が見つかった時に、納得のいくクオリティーで作れればいいのです」
この悠として迫らざるスタンスが、天才の創造性を後押ししている。