春夏秋冬を、中国料理に映す

「銀座 やまの辺」では、旬の食材をふんだんに料理に使う。オーナーシェフの山野辺仁氏は、中国現地にも、気になった食材の産地にも、フットワーク軽くどんどん出かける。そうして磨いた感覚で作り上げるのが、「日本の四季を感じる中国料理」だ。

Photo Masahiro Goda  Text Izumi Shibata

「銀座 やまの辺」では、旬の食材をふんだんに料理に使う。オーナーシェフの山野辺仁氏は、中国現地にも、気になった食材の産地にも、フットワーク軽くどんどん出かける。そうして磨いた感覚で作り上げるのが、「日本の四季を感じる中国料理」だ。

フグの白子も贅沢に。四季を感じる中国料理

この店のコンセプトは、「春夏秋冬を感じる中国料理」。そして日本人である自分のフィルターを通し、日本の食材を使って作る中国料理。そんな思いで「江戸中華」と掲げています。

今回紹介したフグ白子の麻婆豆腐(次ページ)は、冬の定番の品です。麻婆豆腐や、豚の脳を煮込んだ伝統料理が発想のベース。それを、日本の冬のごちそうであるトラフグの白子で仕立てました。
白子は炭火で焼いてから、麻辣(マーラー)味の肉味噌と軽く煮からめます。肉味噌は、宮崎県の尾崎牛を手切りにし、食感を残します。

もう一品の担々麺(次ページ)は、コースの締めの定番。麺は稲庭製法で作られた中華麺を使用しており、独特のしなやかさでシコシコとした食感が好評です。
アクセントには、いぶりがっこのみじん切りを。これは、四川で食べた担々麺で、独特な香りと味の芽菜(ヤーツァイ)、特産の漬物の一種)を使っていたのが印象的で、その話をお客様にしたら「いぶりがっこは?」とヒントをもらって生まれた組み合わせ。

このような感じで、料理を考える時は中国のイメージと日本の食材との間で行ったり来たりしています。そして最後に、「日本人が作る中国料理」に落とし込むのが私のやり方です。

餃子や腸詰め。新店では庶民の味を新表現で

今年、近所に新店「やまの辺 厨房」をオープンしました。「厨房」と書いて、「チュウファン」と読みます。コンセプトは「1杯飲んで、軽く食べて帰れるような店」。料理は餃子、腸詰め、よだれ鶏という具合に、庶民的な伝統料理をお出しします。

銀座 やまの辺、腸詰め

といっても、現地の料理をそのまま出し続ける気はありません。餃子なら、中の肉を羊や和牛にするなど、いろいろなメニューを研究する予定。腸詰めも、スパイスや肉の種類、部位、挽き方と組み合わせは無限。常に「なぜこうする?」「もっとよくならないか?」を料理で追求していますが、それを餃子や腸詰めに応用する、ラボのような店です。

ただこの店の味作りは、私ではなく信頼する料理長が主導します。経営も任せるので、いつか彼が店を買い取ってもいい。皆が自分の仕事に責任を持ちつつ知恵を出し合い、前進してゆくのがうちのチームのモットー。「やまの辺 厨房」で、チームのさらなるパワーアップを期待しています。

両親、先生、空手の師範。高校時代の恩人たち

自分は中学の頃は本当に落ちこぼれで、他に行く高校もないし……という理由で調理学科のある高校に進みました。もともと料理や食べることは好きだったのですが、進路を決めた時は、将来のことは深く考えていませんでしたね。

それが入学して少しした頃、たまたま何かの拍子で授業料を知ってびっくり。中学と同じで、高校も無料だと思っていたんです。でも安くない金額を親が自分のために毎月払っていることに衝撃を受けて、「絶対に料理をモノにする。人生の仕事にする」と決意。そこから料理スイッチが入りました。

とはいえ、1年生の頃は、先生に対しても踏ん反り返って接していて、態度は悪かったです(笑)。それが3年の頃になると、現役の料理人でもある先生たちを心底かっこいいと思うように。一番憧れた、都ホテル東京「四川」の橋本暁一先生の影響で中国料理を選択しました。

中学高校と続けていた空手の師範、保坂先生(如心館館長)の教えも自分を形作ってくれました。夜間高校の先生もなさっていて、多くの難しい境遇にある生徒たちを指導した、真の人格者。人としての振る舞いや思いやりを学び、「保坂先生ならどうするか」と考える習慣が今でも自分の中にあります。

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ラグジュアリーとは何か?

ラグジュアリーとは何か?

それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
サステナブル、SDGs、ESG……これらのタームが、生活の中に自然と溶け込みつつあります。持続可能な社会への意識を高めることが、個人にも、社会全体にも求められ、既に多くのブランドや企業が、こうしたスタンスを取り始めています。「NILE PORT」では、先進的な意識を持ったブランドや読者と価値観をシェアしながら、今という時代におけるラグジュアリーを捉え直し、再提示したいと考えています。