兜の器には、東北で桜の咲く短い間にだけとれるサクラガニ(トゲクリガニ)を、白ズイキと黒酢のゼリーとともに盛り付けて。放流前の稚鮎は、生きたまま揚げることで、みずみずしく内臓までおいしく食べられる一品に。頭にはすり下ろしたきゅうりに、蓼と木の芽をすったものを和えた緑酢を帽子のように載せた。この部分を目がけて頭からかぶりつくと、鮎の熱さと冷たい緑酢のコントラストが味わえる。
「香りの強い菖蒲の葉は邪気払いの意味とともに、武家社会の男の節句ですから“勝負”にかけていたのです。ちまきは、中国の政治家で屈原という人が国を追われ、川に身投げして死んだ時、その川に人々が供え物を投げたのだが、それを川の龍に食べられた。それで龍が嫌う楝樹の葉で供え物を包むようになったのが始まりだそうです」と奥田透氏。
節句や祭り、行事には、それにちなんだものを、季節の食材とともに八寸で出すのが、昭和の料亭では常識だった。
「昭和は高度成長期で、日本料理といえば料亭が中心。お祝い事や親戚の集まり、会社の行事などはすべて料亭でする時代です。料理は広間で庭や掛け軸、節句の飾りなどを観賞しながら食べる、いわば“面”で楽しむもの。ただ、当時は何十人もの大宴会ばかりで、八寸などは作り置きせざるを得なかったので、料理としての質は低かったのです。それが平成に入り、空間は簡素になり、カウンター割烹が主流になって、料理は面ではなく、より上質な食材を“点”で表すものに変わっていった。令和では、日本文化までを料理で表現した八寸のような昭和スタイルで、平成を通して洗練された、上質でおいしい料理を提供する。これがむしろ、新しいのではないかと考えています」
こうした傾向は、日本料理に限ったことではない。奥田氏が銀座で小十を開業した16年前、フランス料理は厚い絨毯を敷いた豪華な店内で、タキシードを着たサービスマンが運んできたシェリーを食前酒にたしなみ、アラカルトの2皿をボルドーの赤ワインとともにゆっくり味わう時代だった。