白くてモコモコでかわいい動物―羊をこうイメージする人も多いだろう。日本ではもっぱら愛玩動物として親しまれているようにも思えるが、実は8000年も前から家畜として、人間とともに暮らしてきたのである。
今や全世界で10億頭以上も飼われ、1000種を超えるともいわれる。どの宗教でも食することができ、世界のいたる所にいる、よく考えてみると不可思議な動物だ。家畜としては優秀で、人間にとって不要な雑草を食べ、それを羊毛や、肉、乳にと換えてくれる。こうして羊と人は長きにわたり、衣食住で密接な関係を築いてきたのである。
それでは、私たち日本人にとっての羊はどうだろうか。日本での羊の歴史をひも解いてみると、本格的に飼育が始まったのは明治に入ってから。開拓使に招かれた、お雇い外国人エドウィン・ダンが、自国のアメリカから羊を輸入し、北海道に牧場を造り飼育した。こうして、アメリカの酪農教師と一緒にやってきた羊は、日本人にとっては見知らぬ珍獣。農機具を使った大規模農業や、広い土地を利用しての酪農と同様に、日本が近代化していくシンボルとして、“羊”を見ることができるのではないだろうか。西洋との架け橋となった羊と日本人の“最初の出合い”、それを探ってみたい。
エドウィン・ダンがやってきた
時は明治維新。開国に伴う欧米文化の流入を背景に、日本で羊毛製品の需要が増大した。そこで政府が打ち出したのは、羊毛の国産化である。1869(明治2)年にアメリカから羊毛種の羊を購入したのを皮切りに、多くのめん羊を輸入。開拓使は外国から教師を招いて指導に当たらせ、75(明治8)年に千葉県下総、その翌年に北海道札幌に牧羊場が開設された。
北海道へはこれに先立つ2年前に東京から48頭が移されている。ただ、本格的にめん羊飼育が始動したのは、お雇い外国人の一人であるエドウィン・ダンが札幌官園(農業に関する試験・普及機関)に着任し、牧羊場を開いてからのことである。
ダンは米オハイオ州生まれ。父の経営するスプリングフィールドの牧場で育ち、牧畜経営を学んだ。来日したのは24歳の時。3年間の“東京官園暮らし”を経て、牛40頭、羊91頭を引き連れて北海道へやってきた。以来6年半、ダンは牛や羊の牧場建設はもとより、用水路の建造や乳製品・加工肉の生産指導、競走馬の育成などに努め、「北海道酪農の父」と呼ばれるまでの活躍を見せた。
時を同じくして札幌にやってきたのが、もっとも有名なお雇い外国人であろうウィリアム・スミス・クラークだ。札幌農学校(現北海道大学)の初代教頭に就任し、実質的に校内のすべてを取り仕切っていた。クラークは自身の専門である植物学だけでなく、自然科学などを英語で教えた。
また、学生たちに聖書を配りキリスト教も講じ、彼らはキリスト教徒になることを決心したという。こうしてクラークが創ったともいえる札幌農学校からは、後に内村鑑三や新渡戸稲造といったクリスチャンの学者を輩出したことはいうまでもない。