花見と言えばお酒。江戸っ子たちは三味線を鳴らし、歌い踊り、時には「茶番」と呼ばれる滑稽な即興劇を見るなど、羽目をはずして楽しんだ。上野では“飲めや食えや”の大騒ぎが度を越すことが問題になり、花見が禁止されたこともあったとか。渓斎『東都花暦 上野清水之桜』東都花暦10景、越長、国立国会図書館デジタルコレクション
花の雲 鐘は上野か 浅草か
松尾芭蕉のこの句は、上野と浅草が「江戸・花見遊山」の二大名所だったことを物語る。江戸にはほかに隅田堤、飛鳥山、御殿山、新吉原、小金井など、桜の名所がいっぱい。多くは8代・吉宗が手掛けたものだ。
小桜、垂糸桜、彼岸桜、八重桜、一重桜……さまざまな品種が植えられた江戸では、花見の季節が1カ月ほど続いたとか。まずは「名所図会」などの“お花見ガイド”に描かれたいくつかの名所をめぐってみよう。
上野の山を吉野に見立てて
徳川家の菩提寺・東叡山寛永寺は創建当初、境内が上野の山全体に広がっていた。3代・家光の精神的支柱であった天海大僧正が「見立て」という思想の下で設計した際、上野の山を奈良の吉野に模して、かの地の桜を植樹。令和の今に続く花見の名所としての一歩を踏み出した。白山桜を中心に3万本もの桜がグラデーションを描きながら山の斜面を覆う、あの吉野の桜に見立てただけあって、上野の桜は植樹を始めて数十年にして江戸随一のお花見スポットとして知られるようになったのだ。
もちろん上野は、今も東京の一、二を争う桜の名所だ。コロナ禍が一段落した今年は、4年ぶりに宴会が解禁になり、往時のにぎわいがよみがえった。愛でたし、愛でたし。
浅草に色香漂う
浅草の名所は浅草寺の裏一帯、観音堂の西側に当たる「奥山」と呼ばれた地域だ。境内に楊枝店や水茶屋などが軒を連ねる一方、奥山には見世物小屋が並び、花見がてら参詣をする人たちを大いに楽しませた。
また吉宗の時代、本堂の真後ろに立つ念仏堂では、開祖・善応がやぶ畳を開いて植樹した、その名も「千本桜」が人気を呼んだ。吉原の遊女たちが桜を寄進し、一本一本に源氏名を書いて宣伝したと伝わる。つやっぽい色香漂うこの名所では、桜にちなむ色柄の着物や帯、簪をまとった遊女らの華やかな姿に出会えることも、大きな楽しみの一つだっただろう。
吉原の遊女たちが桜を寄進したという浅草寺は、“きれいどころ”の中心地。おしゃれして花見に繰り出す女性たちともども、見物人の目を楽しませた。桜と女性の美の競演とはすばらしい!日常を離れて遊ぶ花見に、町人文化の粋を見ることができる。豊国『浅草寺桜奉納花盛ノ図』風俗吾妻錦絵、ト山口、安政4、国立国会図書館デジタルコレクション
墨堤、圧巻の桜並木
「墨堤」と呼ばれた隅田堤は、三囲神社から木母寺まで延びる隅田川沿いの道。ここには4代・家綱の時代に桜が植えられた。その後、吉宗がまず桜を100本、約10年後に桃・柳・桜を計150本植えたことで、花見の名所になったという。隅田川東岸の約4kmにおよぶ桜並木は圧巻だ。
また向島・長命寺門前の桜餅は今も人気の名物菓子。この寺の門番だった山本新六が、隅田堤の桜の葉を利用して売り出したところ、花見の土産としてとてもよく売れたそうだ。
御殿山、飛鳥山・・・・・・
あと二つ、人気スポットを紹介しよう。一つは、現在の北品川にあった御殿山。吉宗の時代に、花見の名所として整備された。桜とともに船の行き交う海の眺めが楽しめて、大いににぎわった。残念ながらペリーの来航により、砲台建設のために山が切り崩され、規模は縮小されたが。もう一つの飛鳥山は、現在の北区・飛鳥山公園に当たる地。吉宗が桜を数千株植えさせ、名所とした。江戸の中心部からはやや遠いが、北に二つの山頂を持つ筑波山、西に富士山を望む眺望がすばらしい。
このほか人工的な期間限定の名所として設えられた新吉原や、江戸の中心部から7里半(約30km)とちょっと遠い小金井など、いずれ劣らぬ個性的な名所がそろう。
いずれにせよ、江戸の花見は庶民の娯楽。「長屋の花見」という落語があるように、棟割り長屋に暮らす人たちがみんなで上野や飛鳥山に繰り出すのが定番のスタイルだった。前の晩から支度をし、一日がかりで楽しむこの一大イベントに、江戸の人はふだんの暮らしにはない「花」と「華」を求めたのだろう。
墨田堤は花街・新吉原と、目と鼻の先だ。芸者衆が隅田川を渡し船に乗って花見に興じることもしばしばだった様子。つやっぽい情景である。当時のこの「粋な遊び」が、現在の「屋形船に乗って、酒食とともに楽しむ花見」につながったのだろう。渓斎英泉『花見帰り隅田の渡し』川口宇兵衛、国立国会図書館デジタルコレクション
もっとも武家の花見は、少々趣が異なっていた。自分の屋敷の庭に咲いた桜を眺めながら、数人が集まって静かに酒を酌み交わすスタイルだ。池波正太郎の『鬼平犯科帳』に、こんな場面が描かれている。
「今戸焼の筒型の花入れに、咲きそめた桜の一枝が挿しこまれてあった。それを真中に置き、五人の男と一人の女が酒をくみかわしている。
四つほどの重箱には、軍鶏を酒と醤油で煮つけたものや、蕨の胡麻あえや、豆腐の木の芽田楽などが詰めてあり、大皿には鯛の刺身がもりつけてあった」
ご存じ、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵が、彼の信頼する6人の密偵たちとともに密やかに楽しんだ、こういう静かで落ち着いた花見もオツなものである。
最後に、花見の歴史を振り返ろう。庶民の間に広がったのは江戸時代だが、花見を楽しむ文化自体はそれ以前……遠く奈良時代の昔に始まった。
起源とされるのが、令和という年号の由来である万葉集にある「梅花の宴」のようなスタイルだ。当時、梅は唐から渡来しためずらしい花。貴族に人気で、万葉集の歌の中でも桜より梅を詠むものが多かったそうだ。
梅と桜の人気が逆転したのは、平安時代以降のこと。「古今和歌集」には、在原業平による「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」という歌を始め、数多くの桜の歌が残る。
その後、桜を愛でる花見の文化は、武士の時代になって定着し、源頼朝や足利将軍家など、武家社会の有力者たちに踏襲された。とりわけ豊臣秀吉が京都醍醐寺で1,000人余りを集めて催した宴は、豪華さにおいてピカイチだ。この時の花見が、「風流な歌会」から、一方で“長谷川平蔵スタイル”を残しながらも「飲めや歌えやの宴会」に形を変える分岐点になったのかもしれない。
さて宴の〆は、芭蕉の句としゃれこもう。芭蕉は扇を広げて、はらはらと散る桜の花びらを受け止めながら、酔いの余韻を味わったのだろうか。桜のはかなさ漂う風雅な句である。

