四国八十八ヶ所 第1番札所 霊山寺
おなじ寺でも、札所の寺は、ちょっとちがう。奈良や京都の古寺なら、なるべく境内に小さな建造物をたてることをひかえ、創建当時の閑寂な空間を保とうと努めている。これに対し“ お四国” の札所の寺は、お遍路さんの信心の脂でぬれているように思われる。
(司馬遼太郎「街道をゆく 32 阿波紀行、紀ノ川流域」)
(じくわざん)一乗院 霊山寺(りょうぜんじ)。“歩き遍路の道”として、多くの人々が行き交った撫養街道沿いにある。
空海は15歳で讃岐国を出て、畿内に向かった。やがて大学に学ぶ、その先には官吏への道が開ける。ところが1年と経たずに、学生を捨てた。
私度僧として、山林修行の道に入ったのだ。18歳の決断である。その経緯が、最初の著作である自伝的戯曲『三さん教ごう指しい帰き』冒頭にある。「爰ここに一の沙門有り。余に虚こ空く蔵ぞう求ぐ聞もん持じの法を呈す」。
どこかの僧からおびただしい数の経典を自在に暗唱できるようになる秘法を教えられたことがきっかけらしい。もっと言えばそれは、自然の理法を知り、動かす力を会得するための秘法。「自然の中、虚空蔵菩ぼ薩さつに向かい一日一万回、百日間かけて真言を唱える」苦行を要する。
だから空海は、山林を目指した。なぜ四国だったかはわからない。
ともあれ、空海は淡路島を経て、船で潮の速い海上4里を渡り、撫養港に入ったと思われる。
空海と四国遍路
「撫養は古来、四国への入り口でした。四国遍路も、東国の人が巡礼するルートとして便利だから、一番札所が撫養港から近い霊りょう山ぜん寺じに置かれた。そこから時計回りにぐるりとね。
寺の数や札所の番号は空海が決めたのではない。室町時代からぼちぼち札所が現れ、88カ寺を回って結願するという巡礼の形が定着したのが江戸時代、17世紀中頃のことです。
ほぼ『空海ゆかりの寺』であるのは確かでしょう」と話す徳島文理大学教授の八幡和郎氏。
そんな寺の中でも重要なポイントが二つある。一つが徳島・太たい龍りゅう寺じ周辺の大瀧嶽。標高わずか600mと、かなり低い山だ。
もう一つは、室戸岬・最ほつ御み崎さき寺じ近くの御み厨く人う屈ど。百万回の真言を唱えたと伝わる洞窟だ。「谷響きを惜しまず、明星来影す」(『三教指帰』)の“不思議体験”を彷彿する情景がある。
「四国遍路は最初、修行の意味がありました。空海が悟りを開くために山深くにこもったように。僧侶たちが修行のために巡礼をしたように。
そこに後年、自分個人の悩みを解決してもらおうと遍路道を歩く庶民が加わりました。あと、この世に絶望して、死ぬまでぐるぐる回る人たちもいました。
お寺は基本、真言宗。この密教は、国や社会の安泰を願う奈良仏教と違って、自分を救うための宗教です。そのためにおまじないをしたり、護摩を焚たいたり。
ただ四国全体で公的に88の真言宗の寺を売り出すのは難しい。『南な無む妙みょう法ほう蓮れん華げ経きょう』を唱えれば即身成仏できるとする日蓮宗と相いれません」。
もう一つ、四国遍路で特徴的なのは「お接待」という文化が根付いたことだ。「巡礼する人たちを助けたら、お参りしたのと同じ功徳がある、という考え方が広まった」ことによる。
「和歌山辺りから、今で言うボランティアのような奉仕団まで集まってきた」そうだ。
撫養は歴史的に重要なところ
ここで話は、空海を離れる。撫養である。「四国の出入り口である撫養には、歴史上の数奇がある」という。
「一つは天皇と将軍、二人の死地であること。これは珍しい。一人は、後ご鳥と羽ば上皇の譲位により3歳で天皇に即位した土つち御み門かど天皇です。
上皇から『軟弱で頼りない』と見られた土御門は、早々に退位させられました。継いだのが順徳天皇。その順徳と上皇が謀って、承久の変を起こすも失敗。
土御門は関与していなかったのに、父も弟も島流しにされ、自分だけ京都にとどまるわけにはいかないと、望んで土佐国に流された。
その後、都に近い阿波に移され、撫養で命が尽きた。もう一人は、足利10代将軍の義よし稙たね。2度将軍職を追われて逃亡生活を続け、まさに再々起を目指した矢先の死でした。
その意味では、撫養は遍路道を象徴する、死への入り口だったとも言えます」。
八幡氏が「面白い話」とするのは、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で竜馬が最初に江戸に出た時、撫養から船に乗ったとされていること。
「記録を見る限り、本物の龍馬は徳島に足を踏み入れたことはない。それを無視したくなるほど、撫養は四国の入り口として重要だったのでしょう」。
阿波気質
徳島に週1ペースで通って10年。八幡氏が歴史的視点から感じる〝阿波気質〟とはどんなものなのか。
「蜂須賀小六が秀吉の四国征伐の後に阿波国を与えられ、嗣子の家政が徳島藩主になって以来、幕末までずっと、殿様は蜂須賀家です。侍がこの地に根を下ろしたんですね。
一方で、商工業が発達したことで、商い。権力の言うことを聞かないんです。だから政治は安定しない。実際、戦後からこっち、知事の後任が意中の後継者になったためしがない。
今の知事が安定しているのは『よそ者だから』だと言われています。あと公共事業の未達率が日本一高い。
『人のために土地なんか売るもんか。ましてあの知事じゃイヤだ』となるから。それと、女性が元気ですね。かわいくて働き者でチャキチャキしてる。
女性社長が多いし、瀬戸内寂聴さんや、カメラマンを目指した立木義浩の母の香都子さん、漫画家の柴門ふみさん、水泳選手の源純夏さんなど、有名人も多い」。
〝阿波気質〟はなかなか骨太のようだ。それにしても町で不思議と蜂須賀家の遺産を見かけないのはなぜか。
「もともと尾張の人で、殿様は殿様、民衆は民衆と勝手にやっていたことが大きい。蜂須賀家は江戸時代の中頃に断絶したこともありますね。
でも明治維新後は14代藩主の茂もち韶あきがフランス公使や貴族院議長などを務めたし、大変なお金持ちで日本歴史学会や相撲、板垣の自由党、北海道・空知の開発などに大金を投じています。
ただ徳島に関係のないことばかりで、地元では『蜂須賀は冷たい』と言われています。おまけに醜聞まみれで没落し、今は雲散霧消してるから、お宝もないに等しいんです」。
八幡氏の〝徳島分析〟には感服するばかり。空海の時代から今日まで、阿波国の底流には真言の音律が響いているように思えてきた。
1951年滋賀県生まれ。東京大学法学部を卒業後、通商産業省に入省。北西アジア課長、大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任。在職中にフランスの国立行政学院(ENA)に留学。1997年の退官後、徳島文理大学教授、国士舘大学大学院客員教授を務めるほか、作家、評論家としてテレビなどで活躍中。著書に『歴代総理の通信簿』(PHP文庫)、『本当は分裂は避けられない!? 中国の歴史』(SB新書)、『「立憲民主党」「朝日新聞」という名の“偽リベラル”』(ワニブックス)など多数。
※『Nile’s NILE』2018年10月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

