紫式部が描きたかったのは人間の実相

『源氏物語』は謎である。紫式部が筆を下ろした時、彼女の中でどんな衝迫が起こったのか。その根源を知って、より面白く物語の深みに分け入りたい。このほど全54帖の“謹訳源氏”を完結させた林望氏。源氏物語に関するあらゆることを知る上智大学教授の三田村雅子氏。平安貴族の生活・文化に通じた同志社女子大学名誉教授の朧谷壽氏。三人の研究者が語る紫式部の心奥は?

Photo TONY TANIUCHI  Text Junko Chiba

『源氏物語』は謎である。紫式部が筆を下ろした時、彼女の中でどんな衝迫が起こったのか。その根源を知って、より面白く物語の深みに分け入りたい。このほど全54帖の“謹訳源氏”を完結させた林望氏。源氏物語に関するあらゆることを知る上智大学教授の三田村雅子氏。平安貴族の生活・文化に通じた同志社女子大学名誉教授の朧谷壽氏。三人の研究者が語る紫式部の心奥は?

はやし・のぞむ
1949年東京生まれ。作家・国文学者。慶應義塾大学大学院博士課程修了。ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を務める。専門は日本書誌学、国文学。近著に『節約の王道』(日本経済新聞出版社)、『リンボウ先生のうふふ枕草子』(祥伝社)がある。『恋の歌、恋の物語』(岩波書店)、『夕顔の恋』(朝日出版社)等、源氏物語に関する著作、講演も多数。

25年余りの高校・大学教員生活の間も「常に源氏物語という鉄壁の巨城が念頭にあった」という林望氏。60歳の夏から3年半余の歳月をかけて『謹訳源氏物語』全10巻(祥伝社)を完成させた。その間、どんな時間が流れていたのだろうか。

「源氏物語という文字で書かれた一つの別世界に入って、一つひとつの場面を追体験していた、という感じかな。紫式部が書いた風景や登場人物それぞれの心情が自分の中で再構築されていき、それをふさわしい現代語に表現して語り直す、という流れの中でね」――林氏の、遠くを見やるその視線の先に、源氏物語の世界が広がっているように思えた。

おとぎ話から人間ドラマへ

紫式部を源氏物語に駆り立てた衝動とは……その質問に林氏は「そう簡単には言えませんが……」と、腕を組んでしばしの沈黙。やがてゆっくりと顔を上げ、「紫式部は結局、人間を書きたかったんだと思います」という言葉が発せられた。

「単に面白おかしい恋物語を書きたいとは思っていなかったでしょう。ただ最初は、おとぎ話的な要素が少し感じられます。光源氏は高貴にして才能あふれる完全無欠な男の子として生まれた、それ自体がまずありえない。加えて、天皇にはなれない境遇で、お母さんはすぐに亡くなって、といったちょっと不幸な生い立ち。その辺りはおとぎ話の世界です。あと、葵の上が六条の御息所に取り殺される話は、怪談ものとしては非常にいい。でもどこか、ファンタジー的なものを引きずっています。

ところがだんだん、リアリティーが増してくるんです。人間そのもの、ヒューマニティー自体を深く掘り下げて。ずっと先の40帖『御法』で紫の上が亡くなる場面など、ファンタジーのかけらも感じられません。一人の人間が死んでいく有り様というものが、実にリアルに描かれています」

林氏は、紫式部の書き方は「決して一枚看板ではない」とする。

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    北村季吟の著した注釈書『湖月抄』(延宝元-1763-年の序文をもつ)。林氏は『謹訳 源氏物語』執筆中、常に座右に置き、参照していたという。
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    初めて源氏に出合った時から、原文と注釈書オンリー。作家の現代語訳は一切読まない林氏は、学問的にきちんと解釈した上で、作家として面白く書くことに心を砕いた。
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貴族社会を赤裸々に描く

源氏物語に描かれる平安貴族の社会、とりわけ恋愛模様は現実に近いものなのか。林氏は「恐らく紫式部が日頃から見慣れていた貴族社会を赤裸々に書いたもの」と見る。ただし「“モデル論”は脇に置いて、一つの文学世界として楽しむのがいい」と言う。

「源氏物語の偉いところは、身勝手な男たちの生態を見せながら、実は彼らも能天気に女の元へ通っているわけではなく、年中、煩悶し懊悩し苦悩している、その心情をも描いていることです。源氏のような理想の貴公子だって、多くの女性たちと関わる中で一人ひとりと向き合い、常に自分の行動を悔やんだり、悩んだりしながら生きていますよね。そこが竹取物語のような、人間としてのリアリティーがまるでないそれまでの物語と、格段に違うところです。何の悩みもなく生きている人なんかいやしません。人生は苦悩と矛盾に満ちているものなんです」

源氏物語と聞くと、つい「平安貴族の雅な世界で繰り広げられた恋物語」をイメージしがちだが、実際には非常に生々しい、人間臭いドラマなのだ。現代にあっても、「いるいる、こういう男、こういう女」「分かるなぁ、その苦しみ」などと、いちいちの場面に感情移入しながら物語に没入してしまう、そんな魅力にあふれている。それはまさにリアリティーに裏打ちされた面白さである。

「紫式部は『野暮天の男はしょうがない』って書き方もしています。例えば源氏の息子の夕霧は、変に学問をしたせいもあって、『そんな口説き方じゃあ、女の心は動かないだろう』というような口説き方をする。ああでもないこうでもない、と脅したり賺したり恨んだり、ぐずぐずと言い募る。かと思うと、不義の子の薫は『自分は色恋にも現世にも興味はない。ひたすら来世を願って、仏道に帰依して……』などと抹香臭いことを言うわりには、やることがムチャクチャ。宇治の里にひっそり暮らす姉妹の姉の大君に惹かれるも拒絶され、『妹の中君と結婚して欲しい』と懇願されましてね。中君の所へ行くんだけど、一晩中何もせずに、つまらない屁理屈をこねて帰ってくる。一方で、陰謀を巡らせて中君と匂宮を結婚させておいて、後で『しまったな』と臍をかむ。何なんだ、この男はと。

皆、源氏一族の貴公子なのに、過ちは犯すし、心の中は矛盾だらけ。これが人間の生態、人生の実相だと感じ入るばかりです」

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    原典として用いた新潮社の「新潮古典集成」本。長い年月繰り返し読んだ折々の注記や所感が、行間や余白に、おびただしく書き込まれている。
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    貴重な『湖月抄』は地下の書庫に2部が厳重に保管されている。他にも多くの貴重な書籍が眠る。
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日本人の辞書に「貞節」はない!?

源氏物語が赤裸々な現実だとすると、不義密通あり、身分違いの恋あり、横恋慕あり、一方的な夜這いありで、平安の世はまさにフリーセックスだったのだろうか。結婚には親の許しとか、それなりの“手続き”を要したようにも思うけれど……。

「フリーセックスというと語弊がある。もちろん政略結婚はありました、源氏と葵上や女三の宮のようなね。でも貴族社会は基本、男は暇さえあればいい女の元へ通う、いい女は容易に男を通わせない、という図式の中での曖昧な性愛関係です。深窓の令嬢や奥様は外から絶対に見えない所にいて、幾重にも固くガードされていますが、女房が手引きして、男をお姫様の寝屋に連れ込むんです。その時点で、男はお姫様に手を付けてよいことになってるんですね。

だから男としては、女房に気に入られないとダメ。『あそこにはいい女がいるらしい』といううわさを聞きつけたり、垣間見していい女を見つけたりすると、まず女房を攻略する。そういう戦略を取ったわけです」

ということは、お姫様と女房が男を“共有”することなど、日常茶飯事だったのか。林氏は「皆、そう」とさらりと言う。「例えば『夕顔』に、源氏が六条御息所と一晩過ごした翌朝、女房の中将に見送られる場面があります。御息所はセックスでくたびれてふらふらで、布団の中から顔だけ出してさよならと。で、源氏は彼女から見えない所まで来ると、振り向きざま、中将の手をギュッと握る。二人はもちろん、関係があったのです」と、源氏物語の例を引いて“実証”してくれた。

「何もそういうおおらかな性愛行動は、宮中に限ったことではありません。日本人にはそもそも『貞節』なんて考えがないんです。身分・階級に関係なく、男と女は“好きになったもん勝ち”。いまだかつて、日本人が貞淑であったためしはない。キリスト教的な純潔に対する信仰などありません。

古事記にある、イザナキ・イザナミの国生みの話からして、セックスは崇高な生産の儀式と捉えられています。それに日本人は農耕民族ですから、稲が実ってくれないと困りますよね。それはつまり、雨が降って日が照る『陰と陽の和合』。それを、陰たる男(雨の水)と陽たる女(太陽の光)が和合して子供が生まれることになぞらえて、『感け呪術』と呼ばれる神事が行われました。豊作を願って、男と女が抱き合って田で性行為のまねごとをして見せる。神様はその和合行為を見て、すっかりいい気分になり『よし』と稲を実らせる。だから性行為=恋がタブーなはずはないのです。

「謹訳」に込めた思い

さて『謹訳源氏物語』。注目すべきは、書名に「謹訳」と冠したことだ。林氏は「謹厳実直」に原典と向き合った。その心とは?

「読書は娯楽。すらすら読めることが大切です。ところが源氏物語は、当時の生活空間や慣習・知識を共有する貴族が当たり前に分かっていることは細かく説明されていないので、現代人には理解しづらい。例えば装束はどんな風なのか、登場人物は寝殿造りの建物のどこにいて、どちらに向かって動いているのか、イメージできません。また古歌が一部だけ、文章の中で頻繁に引用されていたりして、勅撰集などを暗記していなければ、何のことやらさっぱりでしょう。

なので謹訳では、紫式部が省略した部分を復元して訳文に溶け込ませました。あと恋のコミュニケーションツールであるおびただしい数の和歌は、そのままの歌を出し、隣に現代語訳を添えました。注釈はなし。読書の流れが中断されますから。それと地の文の敬語は、確信犯的に省きました。原文は身分の低い女房が語り手なので、登場人物に幾重もの敬語が使われていて、それを現代語のシステムで表現することは不可能です。でも原文にないことを勝手に付け加えたり、作者の意図を変更したりした箇所は一切ありません。ぜひ読んでいただきたいですね」

“リンボウ源氏”は本当にするすると言葉が頭に入ってくる。しかも知らないはずの平安時代の風景が、文字の向こうでひとりでに映像化されるようだし、登場人物のこまやかな心情がリアルに心に響く。国文学者にして作家の林氏だからこそ成しえた快挙と言えよう。

誰もが源氏物語の魅力を再認識するに違いない。

※『Nile’s NILE』2013年11月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

ラグジュアリーとは何か?

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