「口惜しう、男を子にて持たらぬこそ、さひはひなかりけれ」
父・藤原為時は息子よりも、その傍らで自分の講義を聞いていた紫式部の方が学問に熱心で、覚えも早かったために、「この子が男の子だったらなあ」と嘆いたという。『紫式部日記』にあるこのくだりは、紫式部が学問を通して積み上げた豊かにして確かな教養を礎に、前代未聞の“恋愛大河小説”たる源氏物語を書いたことを如実に物語る。
正確な生没年や本名すら伝わっていない紫式部だが、家系をさかのぼるとなかなかの名家である。父方の曽祖父は藤原兼輔、公卿であり、36歌仙に列せられる有名歌人である。一方、母方の曽祖父・藤原文範は文章道を学び、中納言にまで出世した人物だ。不運なことに、その名家も祖父の代以降、中産階級の受領に下り、家柄を保てなかった。しかし文化人の血は受け継がれた。祖父の雅正は歌人だし、父の為時も『後拾遺集』や『新古今集』に歌を採られる歌人であり、漢学に通じた人でもあった。
紫式部という名は、中宮彰子に出仕して以降のもの。「式部」は父が現在の文科省に当たる式部省にいたことにちなむと言われる。「家柄は落ちぶれても、私は知識階級の家の出身なのよ」という一族の誇りを、その名に込めたのかもしれない。
男運に恵まれなかった?
紫式部は当時としては晩婚だ。推測される生年から数えると、25歳くらい。しかし「才気走った女だからモテなかった」というわけでもなさそうだ。本人が「男だって教養を鼻に掛ける人はうだつが上がらない。まして私は女なのだから、『一』という漢学も知らないような顔をしてるわ」と言っているし、清少納言を「漢籍の教養をひけらかして得意顔だが、大したことはない」と酷評している。聡明な紫式部のこと、意識して控えめに振る舞っていたのではないだろうか。それに歌がうまいので、モテる女性の条件は満たしている。
ではなぜ晩婚だったのか。それは「家の事情」だ。父・為時が986(寛和2)年に起こった寛和の変という政変に巻き込まれたのだ。花山天皇が退位・出家に追い込まれ、そのあおりを食った為時は式部省の職を失った。つまり失業者。父親の経済力という後ろ盾のない紫式部には、だからいい婿入り話がこなかったのだろう。
ようやく結婚できた、その相手は父の同僚だった藤原宣孝だ。20歳も年上で既に正妻も子もいたとはいえ、美男子で経済力があり、“ファザコン”だという紫式部の結婚相手としてはいい。ただ宣孝は結婚3年後に亡くなってしまったのだ。同志社女子大学名誉教授の朧谷壽氏が「紫式部は男運が悪い」と言うのもうなずける。
「最初はあんまり結婚に乗り気ではなかったようです。紫式部はお父さんが越前守になった時、くっついて行ったんですが、それもちょっかいを出してくる宣孝から逃れたかったからだと言われています。でも宣孝は、都からいっぱいラブレターを送るんですね。やれ歌会があった、やれすごいごちそうを食べたと、紫式部の都に対する里心を刺激するように。越前は暗いし、寒いし、都のような文化もないでしょう?それで1年で都に帰り、宣孝と結婚したんです。女の人って好ましくない環境にいると、今までアカンと思ってた男が良く見えてくるらしいね」
なるほど、そういう経緯があったのか。朧谷氏はまた、「地方生活を体験したことは、紫式部の見聞を広める上で、非常に役に立った」と言う。「王朝の女性作家はほとんど、受領の娘ですよ。都から地方へ行くのは、世界旅行をするイメージですから、都しか知らない人よりはずっと博識なんですね」とのことだ。
源氏物語、誕生
結婚生活は3年足らず。夫亡き後、紫式部は鬱々とした日々を送る。この頃だ、慰めに物語を書き始めたのは。互いに作品を見せ合い、文学を熱く語る仲間がいたという。
「恐らく源氏物語が最初の作品ではなく、それまでに小さな物語をいくつか書いていたと思います。その中で源氏物語が人気になって、仲間の要望に応えて次々と書いたのでしょう。書物はふつう巻一、巻二といった数字を冠しますよね?でも源氏物語は、『桐壺の巻』とか『若紫の巻』とか、書名が付けられています。つまり単発の物語として流布させ、人気がなければ、そこで打ち切りというスタイル。それが54帖にまでなったのですから、いかに人気があったか、ということですね」
と上智大学文学部教授の三田村雅子氏。平安の文学好きの女性たちが、皆で源氏物語を回し読みしながら、「貸して」と言っては書き写していた様が目に浮かぶようだ。そうして人気がじわじわと高まり、藤原道長の目に留まった。紫式部は彰子の女房となり、今度は愛読者層が宮中を中心に広がっていく。時の権力者がスポンサーに付いたのだから、紫式部もさぞ喜んだだろう……と思いきや、そうでもなかったらしい。
「日記に『イヤだった』って書いてるんですよ。どうやら彼女の宮仕えには父親と弟の昇進が絡んでいて、仕方なく行ったようです。それでも最初は性に合わないと、何度も家に舞い戻っています。そのうち適応して、仲のいい友だちも出来たんですが、彼女の中には文学仲間を裏切ったという気持ちがあってね。仲間から権力に擦り寄った、みたいに言われて、縁を切られた、なんて話も日記につづられています」(三田村氏)
書物の中でしか知らず、反発を感じていた権力の世界に足を踏み入れた紫式部が、しだいにその華やかな魅力に引き付けられていったとしても不思議はない。「きれいな描写が増えて、作風が変化した」と三田村氏は指摘する。
藤原道長と恋仲だった?
室町時代の『尊卑分脈』という系図集に、紫式部に関する重要な情報が書き込まれている。「道長の妾」という文字だ。これをめぐって、「紫式部は道長の妻の一人だった」とする説がある。それは史実なのか。
「源氏物語を愛する紫式部崇拝者は、『室町時代になって書き加えられただけで、事実ではない』と言いますね。私は逆で、火のない所に煙は立たんやろと。道長から声が掛かって、応じない手はありませんよ。我が家安泰じゃないですか。あと日記にも、道長が早朝やって来て、激しく戸を叩いた話が出てくるんです。紫式部は追い返したことになってますが、その後どうなったかねぇ。瀬戸内寂聴さんは、『一応、社交辞令で断ってるけど、後には受け入れてますよ。受け入れない手はない』と言ってました。私も同感です」(朧谷氏)
道長は紫式部のスポンサーであり、夫でもあったかどうかはさて置き、三田村氏は“不仲説”を採る。
「紫式部の理解者は彰子なんです。道長は全然理解していない。性的なことばかり書いてる色好みの女なんだろうとか、あてこすりばかり言う。例えば道長が彰子の出産祝いに自分が大切にしていた最高の硯を贈った時、彰子は『大作家にこそふさわしい』と、紫式部にあげちゃったんですね。道長は怒って、『お前は俺の大事な物をすぐに奪ってしまう』って、紫式部に八つ当たりして。あと彰子が源氏物語の全冊そろいの豪華本を作ったことを、妹の妍子がうらやんで『私も欲しい』と道長におねだりした時のこと。道長は何と、紫式部の部屋を家捜しして清書する前の元原稿を盗んだんですよ。紫式部は日記ですごく嘆いていました、手元に一冊もなくなったって」
そんなエピソードを聞くと、二人が恋仲だったとはとても思えなくなる。ケンカするほど仲が良かったのか、本当にいがみ合っていたのか、いずれにせよ、面白い。
光源氏にモデルはいた?
光源氏は実在の人物をモデルにしたのかどうか、興味が尽きないところだ。三田村氏は「中国も含めて、たくさんいた」とする立場である。その中から境涯が似ているという部分で、数人挙げてもらった。
「一人は源高明。これはかなり言えてまして、一番のポイントは高明が969(安和2)年の政変が起きた時に謀反のかどで大宰の権帥に流罪になった、その日付が源氏の須磨流離の日と一致することです。他にも、皇子でありながら臣下に降った一世源氏であること、若い頃から学問ができたこと、父に寵愛されたことなど、いろんなところがそっくりです。高明の書いた自身の元服式の記録は、光源氏の元服式と酷似していますしね。また流罪になったという意味では、中宮定子の兄、藤原伊周もモデルに考えられるでしょう。大変な美男子だったといいます。もう少し前で言えば菅原道真もそう。この3人はいずれも、優秀であるがゆえに藤原氏の勢力に潰されたと言われています。
もう一人、源融という人がいます。やはり一世源氏ですし、光源氏が建てた嵯峨野の御堂は融の住んでいた別荘・棲霞観を、六条院は河原院という融の造った豪壮な庭園をモデルに描かれていますから。あと夕霧の宇治の山荘のモデルである平等院も、融の持ち物でした。融は天皇になれなかった代わりに、お寺や別荘を建て、そのミニチュアの世界で遊んだ人。光源氏の生き方に明らかに反映されています。特別かっこよかった、という話は聞きませんけど」光源氏に限らず、紫式部は読書で出会ったいい男や、劇的な人生に翻弄された男、恋に生きた男など、いろんな男をミックスして一人ひとりの人物像を構築し、物語の中で生き生きと動かしたのかもしれない。
伊太郎源氏
ここで話を一転。現代の京都で出合えるモノを通して、平安貴族の恋愛風景を見ていく。
まず『伊太郎源氏』。西陣織の織屋・紫紘の創業者である山口伊太郎氏が70歳で挑んだ、織物による『源氏物語絵巻』である。全4巻が完成したのは、30余年を経た「源氏物語千年紀」に当たる2008年。伊太郎氏はその前年に最終巻全ての指示を終え、完成を待つばかりとなった矢先、105歳で永眠したという。「美術館で国宝の『隆能源氏』を見たのがきっかけだと聞いています。
平安時代末期に藤原隆能が描いた、現存する最古の源氏物語絵巻です。70歳を迎えたある日突然、『今日からはわしの余生や、とことん納得のいく織をやりたい。商売抜きの織り道楽や』と宣言したそうです。『千年先まで残る織物を作る』とか『この絵巻を五大陸に残したい』とか言っていたことを覚えてます」
伊太郎氏の孫で、現在は紫紘に勤める野中彩加氏と淳史氏姉弟は制作の経緯を語りながら、最初に手掛けた『源氏物語第三部の竹河(一)』に続く場面の作品を広げてくれた。光源氏の不義の子、薫が年賀に玉鬘邸を訪れたシーンである。
「当時の絵巻物は顔料も少なく、退色・剥落が激しいので、そのまま写すのではなく、修復・再生させなければなりません。それを日本画家にお願いして、下図を作ったんです。その下図で紋様織物の設計図である紋図にします。模様の密度に応じた方眼紙を選定し、一目ごとに把釣り、つまり彩色をします。方眼は経糸と緯糸の色の種類を示し、胴と呼ばれています。2色以上の胴を重ねて織り込んだりする場合も多く、紋図はすごく複雑なんですよ。
紫紘 京都市上京区大宮寺ノ内上ル西入東千本町411 TEL075-415-1717 www.itaro-genji.com
ただ粗いデジタル画像のようなものですから、細い筆線や色のにじみ、ぼかしを表現するのが非常に難しい。例えば若木の梅の伸びやかな幹の曲線を立体的に、陰影もつけて表現しています。微妙に違う複数な色の細い緯糸を、通常の3倍の織り密度で織り込んでいるんですね。逆に桜花は太めの糸で密度を粗く織り、ふっくらした感じを出しています」
説明を聞くだけで、その緻密な作業の連続に気が遠くなりそう。特異なのは、紋様織物の技術に、フランスのジャカード織の技術が駆使されたこと。また紋図作りには、3巻からコンピューターが導入された。それにより「色の変更が容易になったし、アナログ技術ではできなかった表現が可能になりました。でも逆に細部までこだわるようになり、前よりも時間が掛かることになった」そうだ。「織るごとに、新たな技術革新になっていった」という。
「祖父はいつも背筋がピシッと伸びていて、厳格というか、怖くはないんですけど、子供の頃は近寄り難い感じでしたね。でも孫の持ち物にまでよく目配りしていて、私のファッション誌を知らぬ間に切り取り図案の参考にしたり、弟が光るビックリマンシールを持っていると『箔にええな』と仕事場に持って行ったり、新しい感覚を織物に取り入れることにかけては貪欲でした。ご飯食べながら目をつぶって考え事してましたし、四六時中、織物のことが頭から離れなかったようです」
『伊太郎源氏』は全部で3セット。うち一つは「ジャカード織機の恩返し」にと、フランス・ルーブル美術館の東洋美術を専門とするギメ美術館に寄贈した。
いずれ展覧の機会があればぜひ、平安貴族の雅が香り立つ『伊太郎源氏』を鑑賞されたし。
象彦に眠る宮廷の雅
誕生以来千年にわたって愛されてきた源氏物語は、美術工芸史においても異彩を放つ題材だ。1661(寛文元)年創業の京漆器の老舗・象彦には、デザイン化された蒔絵によって源氏物語の雅をよみがえらせた逸品が多数眠っている。硯箱、小箱、喰籠、香合、香炉……宮廷の日常を美しく彩る漆器はどれも、風情のある源氏物語の世界を現出させる。
「京の都は古来、宗教の中心地として、また茶道や華道を始めとする文化の中心地として栄えました。とりわけ宮廷と神社仏閣の存在感は大きく、全てにおいて『最高』が求められたんですね。その中で象彦は、宮中や京都迎賓館の御用を務め、近年は三井家などの旧財閥の依頼を受けて、350年余にわたって蒔絵の技術を磨いてきました。
一方で、高度な技術や美しいデザインの品々の収集もしています。職人の手本として売らずに残したものとか、中には買い戻した品もあるんですよ。そういうコレクションの中に、源氏物語を題材にした作品が多くあります。宮廷の雅を表現する題材としてはやはり強烈な魅力がありますから。実は今も5年に1度、源氏物語を題材に3年掛かりで制作する逸品を発表しています」(象彦15代・西村毅社長)
象彦はいつの時代も「百年先のアンティークをつくる」気概で京蒔絵に取り組んでいる。
恋愛の必須アイテム
平安貴族の恋愛は「和歌でときめく」スタイルだ。歌が下手だと、どんな美男・美女もモテない。男は目当ての女性を恋してやまない気持ちや袖にされた苦しみなどを歌に託して手紙を送り、女はそれに応えて気の利いた歌を返す。恋人たちの交情には、現代の恋愛にはない風雅が求められるのだ。しかも手紙に香をたきしめる、扇にさらさらと美しい文字を書く、といった技巧が凝らされる。和歌と香と扇は、恋愛の必須アイテムなのである。
香りの話は源氏物語に頻繁に出てくる。何しろ光源氏は、覆面をして女の元へ行っても、香りで正体がバレてしまうくらい、いい匂いの男だった。象徴的なのは32帖「梅枝」で明石の姫君の入内を記念して薫物合を催す場面。献上された香木や香料の香りが気に入らない光源氏は、二条院の蔵から古来の品々を取り寄せ、それらを原料に一人2種ずつの香りを作らせる。
それを煉香として今に受け継ぐのが山田松香木店だ。煉香とは、粉末にした香木や天然香原料を調合し、蜜・梅肉等で煉り合わせ、丸薬状にして熟成させたもの。火をおこした炭を入れて温めた灰の上に煉香を置くと、何とも言えないいい香りが立ち上る。同店では、煉香「六種の薫物」の販売の他、5個の香炉を回して香りを聞き分ける「源氏香体験」や、香原料を好みに合わせて調合し“自分の香り”を作る「煉香作り体験」などを行っている。
また1663(寛文3)年に薬種商として創業した鳩居堂は、宮中御用の合わせ香の秘方を伝授されたという歴史を持つ店。現在も四季をイメージした「黒方」「梅花」「荷葉」「菊花」「侍従」「落葉」の「六種の薫物」を販売している。
もう一つ、恋愛の必需品である扇は平安時代、涼を取るというより、女性が顔を隠したり、歌を書いたりする時に使われた。
大西京扇堂の9代目・大西庄兵衛氏によると、扇はもともと記録用紙代わりに使われた経木状の木簡をとじ合わせたものから生まれたとか。その後、宮中の女性たちが常に檜扇を手にするようになり、やがて蝙蝠という紙扇が作られるようになったそうだ。店内を見渡すと、源氏物語よろしく手紙として使えそうな白扇や、源氏物語の場面が描かれたあでやかな扇などがそろう。
平安の昔、貴い女性は顔を見せないのがたしなみ。源氏物語では夕霧が「女性よりも上手に美しく扇で顔を隠す」と称賛される、なんて場面がある。また夕顔が香をたきしめた白い扇に歌を書いて光源氏に贈るとか、薫が扇に朝顔を載せて浮舟に贈るなど、扇は多くの場面で恋愛の重要な役割を担っている。扇には、恋に燃える激しい情熱が秘められていたのである。
「紫式部と恋」をめぐる京都の旅を終えて、改めて思う。源氏物語の魅力をもっともっと深く知りたいと。
※『Nile’s NILE』2013年11月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

