野母半島の西方、長崎港から18㎞余りの海上に浮かぶ小さな島。その姿形から「軍艦島」と呼ばれるここ端島は、明治時代の半ばに岩礁の無人島から海底炭鉱の島へと転身。日本の産業近代化を象徴する拠点として栄華を極めた。
エネルギーが石炭から石油に代わったことで、1974(昭和49)年に閉山し、無人島に回帰して約40年、風化が進む中で、軍艦島は今なおかつての栄華の残照を放っている。
「雨の後は風がきて、海が荒れよる。上陸はできそうやけど、ゆっくりしてられんよ。帰れんようになるから」あいにくの雨。野母町の串之港から軍艦島に向かう私たちに、漁船・ゑびす丸を操る馬場広徳船長のちょっと怖い言葉が飛んだ。
海を突き進むこと約20分。島影が大きくなるにつれて軍艦のような輪郭に、かつての高層ビル群がくっきりと浮かび上がってくる。1960年代に5000人を超える住民が暮らし、東京都の約9倍の人口密度だったという過密都市の「廃墟」の様相には息をのむばかりだ。
こんな小さな島に、よくぞこれだけの建物が密集する近代都市を構築したものだ。明治・大正・昭和と三つの時代に繁栄を謳歌したここが、国家のエネルギー供給地として産業近代化をリードする存在であったことを実感する。
端島で石炭が発見されたのは今から200年前の1810(文化7)年のこと。当初は漁民が漁業の傍ら「磯掘り」と称して採炭を行っていた。その後1869(明治2)年に長崎の富商が結成した六海商社が官許を得て採炭事業を始動させたが、わずか1年で廃業し、経営権は佐賀藩の藩主・鍋島孫三郎に移行した。
一方で佐賀藩は幕末期より端島の数km北にある高島で炭鉱業に着手し、英国商人トーマス・グラバーとの合弁で開発を進めていた。しかしグラバー商会の破綻や明治政府による外資排除の逆風を受け、1874(明治7)年には経営権が後藤象二郎に払い下げられた。
以後、紆余曲折を経て三菱との買収契約が成立したのは1881(明治14)年。後藤による炭鉱経営が破産寸前に追い込まれたのを見かねた福沢諭吉が、買収に消極的だった岩崎彌太郎を口説き落としたという。
三菱は鉱山経験者を高島に集め、外国人を招聘して技術陣を強化した。竪坑と水平坑を次々と開削し、第2代社長・彌之助の時代には高島は炭質・出炭量において他を圧する有力な炭鉱に成長した。1884(明治17)年には中ノ島、二子島、伊王島、沖ノ島を獲得し、1890(明治23)年には端島を買収。海底に約21万坪の大炭田が眠る端島の発展の端緒が開かれた。
軍艦島に上陸した私たちは、長崎市役所・文化観光部の大西淳哉さんの案内でゴーストタウンに踏み入った。通常は見学通路に沿ったごく限られた場所しか立ち入れないが、今回はその限りではない。通路の柵をまたぎ敷地に入り、島内を建物から建物へ右回りに一周するコースである。
地面ががれきと化した道なき道を歩き、貯炭場のあった場所に出た。海底炭鉱の端島砿は炭層が島の真下にあるため竪坑方式が採用された。ここには石炭を坑内から地上に送る巻き揚げ機の櫓と、精炭を選炭場から貯炭場まで運ぶ際に使われたベルトコンベヤーの支柱だけが残る。
さらに東へ向かうと端島小中学校の7階建て校舎に行き着く。ボタで埋め立てられたグラウンドや広い体育館、島唯一のエレベーターを備えた給食室などがあり、子どもたちがはしゃぎ回っていたであろう往時がしのばれる。
鉱員・職員と家族のアパート群は島の南西に広がる。印象的だったのは日本最古の高層RC造の30号棟で、建物中央部が吹き抜けになり、その周囲を階段と廊下が取り囲む斬新な設計だった。また317戸を擁する65号棟は、中庭に子供遊園地、屋上に保育所が設置され、「人に優しい設計」が施されていたとされる。
このほか、1階に碁会所や主婦会室など公共施設が入り、会社経営の厚生食堂やビリヤード場、個人商店、ショットバーなどを備えた日給社宅もある。
島には近代的な病院や映画館などの娯楽施設もあり、生活は島内だけで完結した。炭鉱景気に沸いた時代、暮らしは豊かだったようだ。「昔は母ちゃんたちが畑で作ったものを軍艦島に売りに行ったもんよ。島はこっちの5倍、豊かだったね」とは馬場船長の言葉である。
2時間弱で島を回り終えて感じたのは、ここが近代産業史・近代建築史における最先端の都会だったということだ。いまは「朽ちるに任せる」しかないのが現状ながら、貴重な「栄華の証言者」である。近代化の流れを知る産業遺構として、また環境破壊という過去の記憶を未来につなぐ原資として、少しでも命が長らえることを願う。
※『Nile’s NILE』2013年4月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

