建築家
1956年、神奈川県生まれ。79年、東京大学工学部建築学科卒業後、大学院で建築家の槇文彦に師事。84年、イェール大学建築学部大学院を修了し、帰国後に團紀彦建築設計事務所設立。日本橋室町東地区の再生計画や、台北桃園国際空港第一ターミナルの計画を手掛けるなど、建築とランドスケープデザインの一体化や都市再生の理論と実践が、国際的に注目されている。
緩やかな坂道の先にある三田の住宅街の一画に、雑木林がある。その中でもひときわ大きなケヤキの木に守られるような場所で、建築家の團紀彦氏に迎えられた。心地よく流れ込む風にうるおいを感じるのは、壁に飾られた魚拓のせいか。「実は生まれも育ちも神奈川の葉山です。田中康夫さんが長野県知事のときに、軽井沢のマスターアーキテクトを依頼され、深い関わりを持つようになりました」
建物を建てない建築家として、都市と自然環境に対する提言を行う重要な役目だ。その基本が土壌、そして植栽だという。
「かつて軽井沢は浅間山の火山の石が転がる原野でした。そこに雨宮敬次郎や宣教師のアレキサンダー・クロフト・ショーが、防風林としてカラマツを植え、やがて日本列島の東西の植栽が入り交じる緑の多い地となりました。長い目で見ると、こうした植栽が町をつくり上げ、ランドスケープをもたらすのです」
軽井沢の町並みや別荘地が、常にカラマツを始めとする木々とともにイメージされるゆえんだろう。
「町とともに樹林も成長します。旧軽井沢周辺は木が大きくなりすぎたため、近年は通風や湿度の問題も出てきています」
後の世にもおよぶ自然の力まで計算した町づくりは容易ではない。建物のデザインや構造だけでなく、土地や植栽など、ランドスケープの知識も求められる。
「目に見える部分だけではなく、地質や水脈なども重要な要素です。景観を考えるときの基本は、その土地の全てを知り、愛すること。今の軽井沢は人の手で原野からつくられた町ですが、ゆっくりと先を見ながら成長してきました。それぞれの時代にすばらしい建物も築かれた。そうした建物が、別荘が多いエリアでは塀で囲われていない数百坪の敷地に当時のたたずまいのまま維持されています。厳格な規則はないのですが、今も昔も景観は大切にされています」
近年は町づくりの見本として軽井沢を訪れる東南アジア諸国の使節団も多いという。
「欧米のように樹林を統制するのではなく、手つかずの自然も残されているので、心が休まるのではないでしょうか。欧米の文化を取り入れながら、町と自然の共生を目指すことで、ほかにはない独自の発展を遂げてきたことも軽井沢の特長だと思います」
また、住民票を持たず、夏だけ軽井沢の別荘に訪れる人も多いため、コミュニティーの声を反映し、新しい軽井沢の町づくりに生かすことも課題の一つだ。
軽井沢のマスターアーキテクトに就任した一昨年、軽井沢のセゾン現代美術館で「都市は自然」展を開催した。森羅万象が共存する世界で、生命と文化の多様な葛藤を、豊かな都市空間と自然環境へと昇華させる作品は多くの共感を得た。
「以前から提唱されてきた共生の思想が、町づくりにも生かせる時代をうれしく思います」
※『Nile’s NILE』2022年5月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

