白神山地のブナ林は、約8000年前の縄文時代に誕生したといわれている。以来、人間の影響をほとんど受けずに現在に至る原生林だ。人は古くから森を利用し、共生してきた。そのため、本当の原生林というのは世界的にも貴重であり、だからこそ今から31年前の1993年、白神山地は屋久島とともに日本初の世界自然遺産に登録されている。
ふんわりと柔らかな土を踏みしめ、ブナ林を歩く。太古の森はさぞうっそうとしていることだろうと思いきや、白神山地の森は明るい。見上げると森全体がブナの葉に覆われているが、そこから無数の木漏れ日が落ちて、地面を照らしている。ブナやカエデなどの落葉広葉樹は葉が薄いので、光が透けて見えるのだ。明るさはまた、森が成熟している証しでもある。森の成り立ちは、まず草地にアカマツやシラカバなど日当たりのいい場所で成長が速い陽樹が育ち、そのために森が暗くなると、今度は暗い場所でも成長できるブナやスギなどの陰樹が育つ。やがて陰樹が中心を担い、森は安定した極相を迎える。極相の森には全体に光が行き届き、地衣類から草本類、低木類、高木類まで多様な植物が育つ。もちろん、多くの微生物や動物もいる。成熟し、豊富な生命を宿す森であるほど、明るいのだ。
白神山地は秋田、青森の県境を中心に広がり、その広さは約13万haといわれている。このうち、世界自然遺産地域に指定されているのが約1万7000ha。その核心地域は森林生態系の維持のため、入山する場合、青森県側では届け出のうえ、指定されたルートに限り、秋田県側では調査や報道の場合を除き、入山が禁じられている。周囲の緩衝地域は一般の入山が可能となっているので、散策をする人も多い。
秋田県側の八峰町の留山から薬師山散策コースを歩いていると、ブナの幹にクマの爪痕が残されていた。ツキノワグマはブナの実が大好物で、落ちている実を拾うだけにとどまらず、木に登って枝を自分の口に引き寄せ、そこになった実をごっそりと食べるのだそうだ。食べ終えた枝は、体の下に敷いていわゆる「クマ棚」と呼ばれる座布団にする。白神山地にはイノシシはいないが、ツキノワグマを始めニホンカモシカ、ニホンザルなど中・大型の哺乳類が14種、両生類が13種、爬虫類7種、鳥類90種前後確認されている。とはいえ、日中に一般向けのルートを歩いていて動物たちに遭うことはめったにない。近年は白神山地の麓ふもとでも地球温暖化の影響かニホンジカが見られるようになり、森の生態系に影響を与えないか心配されているが、本来、森が正常に機能していれば動物たちはひっそりと身を潜めて生きている。森にあるのは、彼らの気配と、姿の見えない鳥たちのさえずりだ。もちろん、植物なら日中でもかわいらしい姿を見せてくれる。白神山地では、サルメンエビネやヤシャビシャクなどの絶滅危惧種や、ここにしか生息しない貴重な固有種であるツガルミセバヤも見ることができる。