照葉大吊橋から森を一望
照葉大吊橋(てるはおおつりばし)に向かった。世界的にも貴重な照葉樹林の美しい景観を多くの人に味わってもらおうと1984年に架設、2011年にリニューアルされた、高さ142m、長さ250mのこの吊橋は、綾南川をまたいで悠然と立つ。吊橋の先に遊歩道が設けられ、自然林をぐるり散策できる仕掛けだ。単なる観光のためのモニュメントではなく「人と自然林との懸け橋」でもあるのだ。
ここから真下を見ると足がすくむほどだが、そんな恐怖感も綾南川の両岸に広がる照葉樹林を見渡した瞬間に雲散霧消する。深い緑の美しさと優しさ、ぬくもり、静けさ、そして力強さ。照葉樹林の持つ包容力あふれる威容に圧倒された。
ここは林間を真上から見下ろす絶好のポイント。見事なブロッコリー状の茂りを見ることができ、シリブカガシがちょうど、茶色い地味な花をつけていた。その隣にある茶色い木は、木に寄生するオオバヤドリギで、実は甘くてガムみたいに粘っこいものが残る。それでトリモチをつくるという。そのそばにはリュウキュウマメガキ。実の液は柿渋になり、昔は和傘などに使われていた。野生のカキノキは、コクタンと同類の木材になり、木の上をはう長いつる状の枝が伸びる植物がカギカズラだ。カギのある茎は漢方薬や漁網の防腐剤に使われる。山の中には家具や木工品の材料になる木はもちろんのこと、薬用や食用に使われる植物もたくさんあるという。工芸もしかり。ガラス工芸作家の黒木国昭さんは照葉樹林をテーマに綾切子を作っているし、染織家の秋山眞和さんは藍染めに使うあくに照葉樹林の木灰を使っている。
照葉大吊橋から見渡す絶景に、照葉樹と人の生活文化とのつながりの一端を見た思いがする。
その後、いくつかのポイントから森を眺めた。いわゆる「極相の森」。裸地が200年から300年以上の時を経て植生の遷移が終わり、最終的に出来上がった森である。
いつの間にか雨はやみ、青空が出てきた。しだいに明るさを増す陽光を受けた森は、木々の葉が輝き、また違った味わいがある。
綾の照葉樹林プロジェクト
綾町に照葉樹林が残っているのは「たまたま」ではない。実際、50年ほど前に営林署から「山を切る」話が持ち上がった。綾北川沿いにあった旧川崎財閥の山林の立木を製紙会社が伐採し尽くしたため、そのハゲ山と綾の自然林の立木と交換することが決まったというのだ。
当時の綾町は「夜逃げの町」と呼ばれていた。林業が衰退し、耕地面積も少ない綾町は、貧困に窮していたのだ。伐採が始まれば雇用の創出につながるから、目先の利益だけを考えれば悪くはない話だ。しかし時の町長、郷田實氏は「それは自然林の破壊を意味する」と断固反対した。その根拠をしっかり提示しようと、山や自然に関する本を片っ端から読んだ。そして「綾は日本文化のルーツたる照葉樹林を立派に保存してきた。その価値こそが今後の発展に資するものだ」という結論に達した。
郷田氏は農林大臣に直訴し、山を残すことに成功。同時に経済的自立を目指して、「木工の町づくり」を始め、住民の自給自足を確立する「一坪菜園運動」、有機農業を推進する「自然生態系農業」、全員参加の町づくりを実現する「自治公民館運動」などを展開した。そうして「子孫に遺のこす町づくり」に深謀遠慮をめぐらせ、果敢に挑戦を続けた郷田氏の熱意は後進に受け継がれ、2005年には「綾の照葉樹林プロジェクト」が始動した。
対象地域は1万haで、内自然林は3500ha。その原生林の保護と、何らかの形で人の手が入っている人工林を自然林に復元を目指した。後者は植林されたスギやヒノキを少しずつ間伐し、林内に光を多く入れることで照葉樹を自然発生させる方法で、実験を重ねながらの100年計画だという。また経済的自立の部分では、有機農業や大吊橋を中心とする観光事業、地下水を利用しての工場誘致、スポーツ合宿の誘致などを行い、増収を図っている。産学官と住民が一丸となって取り組んでるプロジェクトである。
そんな綾町は、自然共生社会を持続的につくるモデル都市として、国内外から注目を集めた。2012年には、こうした半世紀にわたる官民あげての取り組みが世界的に評価され、国内では32年ぶり5カ所目となる、人と自然の共生を目指すユネスコエコパーク(MAB)に登録された。登録地は、核心地域、緩衡地域、移行地域という3区分に指定され、核心・緩衡地域は綾の照葉樹林プロジェクトエリアとなっている。多様な生き物が生息する自然を保護するだけでなく、そのまわりに生活する人たちの持続可能な発展を目指している。