主計町 今昔物語
主計町の名は、この地に上屋敷を設けた富田主計重家にちなむ。重家は、大坂冬の陣・夏の陣で功を立てた加賀藩士である。ただし富田家は、その後当地を離れている。
1811(文化8)年に編纂された『金沢町名帳』によると、当時の主計町は家数42軒、古着・古道具を売る店や、苧綛織(からむしかせおり)という織物の店、宿屋、医者、そば屋などがあったという。町が発展したきっかけは、1869(明治2)年に遊郭が認められたこと。最盛期の昭和初期には、茶屋60軒、芸妓100人以上を擁していた、とも伝えられている。
しかし戦後、法改正などにより、郭に象徴される歓楽的な要素が廃され、東郭と西郭は茶屋・料亭に転じ、主計町は衰退。1970(昭和45)年には、尾張町2丁目に吸収されて、町名が消失してしまう。町民にとって、これほど寂しいことはない。心のよりどころを失ったも同然だ。
主計町の名が復活したのは、約30年もの時を経た1999(平成11)年。その3年前に「旧町名復活委員会」が結成され、何度も協議を繰り返した末に実現した。町名を消失した町が多数ある中、主計町は全国で初めての快挙を成し遂げたことになる。こうして主計町茶屋街は、町民はもとより行政や旦那衆に支えられて、かつての隆盛を取り戻していったのである。
今昔の講釈はこのくらいにして、芸妓文化漂う町中へ歩を進めよう。