加賀友禅

加賀藩主の前田利常は、後水尾天皇を中心とする京都の芸術運動「寛永文化サロン」と交流し、多くの超一流の文化人を金沢に招いて、文化の振興に努めた。加賀友禅はその流れの中で生まれ、熟成の時を経て開花した伝統工芸の一つである。今に伝え継がれ、未来に紡がれていく伝統文様の世界へご案内しよう。

Photo Masahiro Goda  Text Junko Chiba

加賀藩主の前田利常は、後水尾天皇を中心とする京都の芸術運動「寛永文化サロン」と交流し、多くの超一流の文化人を金沢に招いて、文化の振興に努めた。加賀友禅はその流れの中で生まれ、熟成の時を経て開花した伝統工芸の一つである。今に伝え継がれ、未来に紡がれていく伝統文様の世界へご案内しよう。

加賀、長町の武家屋敷跡
長町の武家屋敷跡。冬真っ盛り、土塀には雪や凍結から守る「こも掛け」が施される。武家社会が支えた加賀友禅は、武家好みの落ち着きを良しとする。

向かった先は長町。藩政時代に藩士の屋敷が立ち並んでいた地域である。身分や禄高で屋敷の規模は異なるが、平士クラスで平均約236坪(約780㎡)の広さだったとか。
今も昔ながらの土塀や石畳の小路が残り、“現役のお屋敷”が軒を連ねる様から、武家社会が支えた加賀文化の気品と風格が匂い立つようだ。

この長町の一角に、加賀友禅の工房「長町友禅館」が立つ。ここに寄る前に、少し理論武装。加賀友禅の歴史について触れておこう。

始祖はその名も宮崎友禅斎

加賀友禅のルーツは、500年ほど前に行われていた加賀独特の染め技法「梅染(うめぞめ)」とされる。梅の樹脂を細かく砕いてつくった染液で、加賀絹を染める技法である。染めの回数を変えることで、微妙な色合いを出すことができる。

最初は黄色がかった赤色で、その後回数を重ねると「赤梅染」と呼ばれる赤色に、さらに何回も繰り返して染めると「黒梅染」という黒色になる。この加賀の梅染は非常に品質に優れていたそうだ。それが証拠に、「梅染の小袖帷子(こそでかたびら)が加賀の守護富樫(とがし)氏から公方(くぼう)に進上された」という記録も残っている。

この染め物に模様が施されるようになったのは、17世紀中頃のこと。
黒茶地に小紋を染め出した憲法染や色絵・色絵紋の繊細な技法(総称して「加賀御国染」)が確立されたことから、加賀の染め物は現在につながる独自の道を歩み始めた。

さらに江戸時代後期になって、「加賀友禅の始祖」と称される人物が登場した。その名は宮崎友禅斎(みやざきゆぜんさい)、京都の知恩院門前に居を構える扇絵師。その人気ぶりたるや、井原西鶴の『好色一代男』に、当時の伊達男の間では「友禅扇子を持たない男はおしゃれではない」と言われた、というような記述が見られるほどだ。そしてある日、ある呉服屋が友禅斎に小袖の図案を依頼した。それが友禅染の始まりだ、とも言われている。

それはさておき、友禅斎は京都で染め技術を確立した後、すでに整備されていた京都と金沢間の“文化ルート”に乗ったのか、金沢に移り住んだ。そして染め物に携わる職人の親方的存在である紺屋の「太郎田屋」に身を寄せ、斬新なデザイン模様染めを次々と創案。
一方で「友禅糊(のり)」を開発するなど、加賀友禅の発展に大きく貢献したという。

やがて加賀友禅の技術ならびに美しさは、加賀百万石の武家文化の中でいっそう磨きがかかり、多くの名工を輩出したのである。

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ラグジュアリーとは何か?

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