ぼんぼりの灯に浮かび上がる踊り手たち
家並みに沿って並ぶぼんぼりの灯が、緩やかな坂道が続く石畳の通りを淡く照らし出し、重厚な三味線のリズムにそっと纏(まつ)わるような胡弓(こきゅう)の音が哀愁を誘う。男そして女が歌う甲高く長く続く歌声が切々と響き、編み笠で顔を隠し、そろいの浴衣姿も艶(あで)やかな女性の踊り手たちの姿が闇を抜け、ぼんぼりの薄明かりの中に浮かび上がった。山裾の町、富山県八尾町(やつおまち)で9月1日から3日間催される「おわら 風の盆」の町流しである。
町内には11の町の保存会があり、それぞれが一団となって踊り、通りを流す。古くから踊られてきた豊年踊りは農作業の所作を表現していると言われ、保存会によってはそろいの浴衣に唄の一節や「風の盆」の文字が染め抜かれている。また襟に町の名前を染め抜いたそろいの法被で踊る男踊りも農作業の所作を表現していると言われているが、しなやかな中にも直線的な力強さがあって勇壮である。踊り手は26歳未満で、地方(じかた:唄・囃子など)はそれ以上の年長者に受け継がれているのだという。
蚕や和紙の産業で発展した八尾町はかつての飛騨街道の要所で、瓦屋根に白壁、格子戸の家が立ち並ぶ諏訪町本通りは「日本の道100選」に選ばれている。人混みを外れて、蚕が祀まつられているという東新町の若宮八幡社に向かった。暗闇で中をうかがうことはできなかったが、手水舎には繭の形をした水盤が置かれていた。本来は聞名寺(もんみょうじ)で行われていた盆踊りだった、という情報を耳にし、聞名寺を目指して急いだが、途中で出会った町流しに見とれてしまった。
「おわら 風の盆」の起源は元禄15(1702)年にさかのぼると言われ、加賀藩から下された「町建御墨付」を八尾の町衆が、町の開祖で後に町を去った米屋少兵衛家から取り戻した祝いに、三日三晩、歌舞音曲無礼講で町を練り歩いたのが始まりとされているが、のち二百十日の台風の厄日に五穀豊穣と風神鎮魂を祈る行事となり「風の盆」と呼ばれたという説がある。また盆にはいわゆる盂蘭(うら)盆の意味の他に富山地方には休みの日を「ボン」と呼ぶ習慣があり、名前の由来になったのではないか、とも言われている。明治40年代には胡弓が取り入れられて風の盆ならではの哀愁を帯びた旋律が生まれ、大正から昭和初期にかけて唄や踊りが改良され、洗練された形が整い現在に受け継がれているのだという。
町内11組が自由に行う町流しは神出鬼没である。踊りが終わって移動した後の通りに一瞬の静寂が訪れる。と、別の通りから三味線と太鼓の音が流れてくる。その通りは既に人垣で身動きもできなくなっている。時計の針は町流しも終わる深夜11時を示そうとしていた。西町の通りを抜けて帰途に就こうとしたが、誰もが加わって踊ることができる輪踊りの大きな波に阻まれてしまい、ようやく通り抜けた今町でまた町流しに出会う。祭りの熱気はまだまだ収まりそうになかった。
コロナ禍で中止されていた2年間を経て、本年は伝統を守ることを主眼に、観光客を極力抑え、小規模で行われたようである。