隠れ里に咲き開いた桃山文化
「人吉の町でおどろいたのは、青井阿蘇神社の桃山風の楼門だった。——京都あたりに残っている桃山風の建造物(西本願寺の唐門など)よりもさらに桃山ぶりのエッセンスを感じさせる華やぎと豪宕さを持っているのである」(司馬遼太郎著 「街道をゆく3」朝日文庫)
——司馬遼太郎も称えたこの神社は、2008年4月、桃山様式の優れた建築が認められ、国宝に指定されている。新緑に縁取られた茅葺の楼門を見上げれば、旅の道中に鄙びた道を歩き、ふいに石段の向こうにそびえるこの姿 に出会った時の司馬氏の感嘆は、さもありなんと思える。豪放にして華やかな桃山の気風が、時を越えて今ここに吹きわたるのを感じられるようである。
そして何より、文化盛んな中央から遠く離れ、山と川に囲まれ て地形的にも閉ざされたこの奥地に、これほど見事な桃山文化が咲き開いたことに驚きを覚える。
相良氏700年の支配を支えた守り神
青井阿蘇神社の創建は1200年前。大同元年(808年)、熊本県阿蘇市にある阿蘇神社から分霊を迎えたのが始まりだ。祀神は、神武天皇の孫であり阿蘇開拓神であ る健磐龍命(たけいわたつのみこと)、その妻の阿蘇津 媛命(あそつひめのみこと)、彼らの子である國造速甕玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと)の三神とされる。楼門、拝殿、本殿、幣殿、廊と、現在残る一連の 社が建立されたのは慶長期のこと。人吉球磨地方を 700年もの長期にわたり支配した相良家の、20代相良 長毎と重臣の相良清兵衛親子により、1609年から1613 年にかけて造られた。
以来、青井阿蘇神社は相良家の 守り神として、その繁栄を支えることになる。いうなれば、日光東照宮が徳川家の権威の象徴であるように、青井阿蘇神社もまた相良家の地方君主たる象徴だったともいえる。楼門を始め本殿などにほどこされた、華麗にして精緻な彫刻と(今は色あせたが)華やかな彩色。これらは相良清兵衛親子の権力の現れである。
華麗な桃山、個性豊かな人吉様式が溶け合う
楼門、拝殿、本殿、幣殿、廊と、社を一巡りすると、桃山様式とあわせて人吉球磨地方の特色も見てとれて興味深い。
たとえば楼門の天井に描かれた龍。今となっては色落ちが激しく肉眼では判別がつきにくいが、赤外線写真での調査によると、龍が天井桁をまたいで描かれているのがわかる。龍の天井画は他にも例があるが、天井全体をひとつの画面とする大胆な構図をとるものは非常に珍しいという。
そして楼門屋根の軒下に、突如現れる阿吽の形相を持つ神面。このような場所に神面を取り付けるのは、当地方にしか見られない実に特異なものとして、「人吉様式」とよばれる。
閉ざされた時代に育まれた豊かな文化
青井阿蘇神社を始め、人吉球磨地方は地方独特の様式を持つ文化財が豊富な地方で、限られた地方にこれほど集中するのは、全国的にみても珍しいという。それは、相良氏が中世から近世にかけて700年間にわたりこの地を治めた、日本史上でもきわめて稀な事情によるものが大きいという。相良家支配下では、政治や経済、文化的な面で、外からの変革を受けにくかったのだと。そして今でも、青井阿蘇神社では伝統の祭事が執り行われており、毎年秋には、これもまた独特の形式を持つ球磨神楽が奉納される。相良支配下の城下町で自由にのびのびと育まれ、守られてきたこの地の文化は、今なお流れを絶やすことはない。
神社に豊かな表情を与える彫刻たち
青井阿蘇神社には彫刻が豊富に残されている。浮き彫り、丸彫り、透かし彫りと技法も様々で、モチーフも人物、花鳥、霊獣とバリエーションに富んでいる。そしてその表現の豊かなこと。全体に優しさと素朴な雰囲気をたたえているのは、人吉球磨の風土によるものだろうか。楼門と幣殿には、中国元の時代、家庭教育のために編み出された二十四話の親孝行物語、「二十四孝」の彫刻がほどこされる。楼門といえば、社の入り口であり民衆の目に最も多く触れるもの。そこにあえてこの物語を取り入れたのは、両親との縁に恵まれなかった相良長毎が、親孝行の大切さを民に伝えるためだったとの説もある。
※『Nile’s NILE』に掲載した記事をWEB用に編集し再掲載しています