となると、「許容されはしない」が、本来の神道の在り方そのものという部分があってしかるべきなのだ。そしてこれを人知れず、「口伝」で連綿と伝えているのが「古神道」なのである。その担い手たちは神職など目に見えるものを一切担ってはいない。唯一あるとすれば「霊格」を見いだされることによって将来に向けて「役割」を担わされている点においてだけ共通した者たちなのであって、決して主向きは分からない人的つながりであるところに特徴がある。
さて、なぜ本稿で「古神道」を取り上げたのかといえば、「自然」と書いて「じねん」と呼ぶのは正にその世界においてだからだ。そしてそこでいう「自然」という概念の大前提には「日本的霊性」(鈴木大拙)がある。つまりそれは「作用の対象」なのではなく、「自らが同化すべき対象」なのである。自然は私たち人類の意思とは無関係に着実に動いているのであって、それにあらがおうとするととんでもないしっぺ返しに遅かれ早かれ出くわすことになる。そうした「西洋的なやり方」に対して「東洋」においてはむしろ、それとの「同化(assimilation)」によって自然が現象として私たち人類の側に災禍を及ぼす前に気づき、備えるということを促すのである。ここに東西における文明の根本的な違いがある。
現下の「酷暑」もまた同じである。「酷暑」ということは、何かが燃えたぎっていて、もはやそれを抑え込むことができないからこそ、地表に、そして大気中に噴出してきているのである。自然が自律的にというよりも、こう考えた場合、私たち人類が19世紀頃から「動力革命」「情報革命」「電子革命」「知能革命」と進めることで「マルサスの法則」を乗り越えようとし、結果としてエネルギーを大量消費してしまっていることに気づく。「酷暑」の原因は何のことはない、私たち人類の側にある、と「古神道」では考えるのだ。
「暑い、暑い」といってエネルギーを大量消費していては事態が悪化するばかりだ。そもそもの私たちの生き方、在り方を変えるべきときが来ている。「古神道」はそう、私たちに今、語りかけている。
原田武夫 はらだ・たけお
元キャリア外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。情報リテラシー教育を多方面に展開。2015年よりG20を支える「B20」のメンバー。
※『Nile’s NILE』2025年11月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

