店の壁には『日用倹約料理仕方角力番附』(通称「おかず番付」)が貼られ、江戸気分をかき立てる。本書でもそこから数品紹介されている。豆腐を水と酒と醤油で煮る「八はいどうふ」、油揚げに付け醤油を塗って焼く「あぶらげつけやき」など、食材単品を煮ただけ、焼いただけのシンプル調理が多い。それで十分なほど加工食品の完成度がすでに高かったのだろうと推測しつつ、和食が引き算の料理と言われるゆえんがここにあるのだなと思ったり、足るを知る日本人の精神性が潜んでいるのではないかと考えたり、四方八方へ思考が広がる。
芝浜ではしばしば煎り酒(日本酒に梅干し等を入れて煮切った調味料)が用意されるが、本書でクローズアップされるのは塩酢だ。醤油が主流になるのは江戸後期で、それまで刺し身は酢に塩を溶かした塩酢、そこに薬味を加えた調味酢で食べていたという。やってみると、なるほど醤油のうまみにマスキングされることなく、魚の香りや味わいの輪郭が立ち上がり、清冽な印象。醤油浸透以前の調味法は、食材の持ち味を素直に堪能させてくれる良さがある。
本書のレシピの材料表を丹念に見ていったなら、きっと気付くに違いない。必要以上にだしに頼っていないこと、そのだしも江戸時代に忠実なかつおだしのみで、昆布との合わせだしにしていないことに。うまみがUMAMIとして世界にもてはやされるようになって、現代人はうまみに頼り過ぎていると、江戸のレシピが教えてくれる。
鮨で呑み、玉子焼きで呑み、豆腐で呑み、鍋で呑む。汁で呑み、汁かけ飯で締める。本書が伝授する前のめりな呑みの姿勢こそ、江戸呑みの本領かもしれない。考えてみれば、何で呑むかはクリエーティブな行為だ。「長屋の花見」などは良い例だろう。何ででも呑める、何につけても呑む。呑みの開拓精神をクリエーティブと言わずして何と言おう。
コロナ禍以降、自宅仕事が増えて、これ幸いと朝から呑みながらPCに向かったものだった。いつしか家でも仕事に追われ、“呑み”が減ったのを実感する今日この頃。江戸呑みに倣って、呑みの姿勢を取り戻さねばと思う。
君島佐和子 きみじま・さわこ
フードジャーナリスト。2005年に料理通信社を立ち上げ、06年、国内外の食の最前線の情報を独自の視点で提示するクリエイティブフードマガジン『料理通信』を創刊。編集長を経て17年7月からは編集主幹を務めた(20年末で休刊)。辻静雄食文化賞専門技術者賞選考委員。立命館大学食マネジメント学部で「食とジャーナリズム」の講義を担当。著書に『外食2.0』(朝日出版社)。
※『Nile’s NILE』2025年6月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています