もう鬼籍に入られたが、人間国宝でもあった歌舞伎役者さんからお聞きした話で、強く印象に残っている言葉がある。
舞台には表と裏があるが、どんなに裏で苦労を重ねても、決してそれを表に出してはいけない。それが役者の務めだ。見せるべきものと、見せてはいけないものがある、ともおっしゃっていた。
昨今の割烹を始めとする和食店を見ていると、しばしばこの言葉を思い出す。このコラムでも何度も書いてきたが、土鍋ご飯のパフォーマンスなどは、その典型例と言ってもいい。炊き上げる前の土鍋というのは、舞台裏の仕事であって、わざわざ客に見せびらかすものではないだろう。
それだけでは飽き足りないのか、最近では出汁を引くところまで客に見せる料理人が出てきた。かつを節を削るところや、昆布出汁を引く様子をカウンター席で見せながら解説する。件の役者さんの言葉に倣うなら、これらはあくまで舞台裏の仕事であって、表舞台に出すものではないはずなのだが。
日本料理における出汁の重要性は、誰しもが認めるところだが、それはあくまで内に秘めたるものであって、食べる側に強く知らしめる必要性はないと思う。どこ産の昆布がどうとか、何度のお湯で抽出するだとか、節の種類の使い分けだとか、それをわざわざ客に伝える必要があるとは思えないのである。
海外のレストランでもこういうことはあるのだろうか。フレンチのシェフが客にフォンやブイヨンの製作過程を解説するだろうか。あるいは中国料理店で清湯(チンタン)を客の前で作ったりするだろうか。
そう考えると、昨今の出汁至上主義とでも呼ぶべき現象は、かなり異例なことだと言える。そもそも、国の内外を問わず、出汁にしてもスープにしても、基礎になるもので、建築に例えるなら土台にあたるものだ。それが重要であることは間違いないが、プロの料理人であれば、それは大前提として話を進めるべきものだろう。
いったいいつから日本の料理人はこれほど饒舌になったのか。今や割烹のカウンターでは、料理教室のようなやり取りが繰り広げられている。問われて語るならまだしも、口上から始まり、食材の産地や調理法までを客に聞かせるのが当然のようになっている。
それには一斉スタート、同時進行おまかせ料理のみ、というシステムが必要なのだろう。ぼくが一斉スタート、おまかせコースオンリーの店を敬して遠ざけているのは、好きなものを好きなときに食べたい、という願いからだけではなく、料理人語りを避けたいからでもある。
日本には「言わずもがな」という言葉がある。饒舌に過ぎると興をそいでしまい、ともすれば押しつけがましくなる。しかしながら、これは料理人側だけの問題ではなく、客の側にもその一因があるという。客がそれを求めているというのだ。
とある京都の割烹店で、年輩の主人から聞いた話だと、料理を出す際に、最低限の説明だけをしていたら、不愛想で不親切な料理人だと、口コミサイトのレビューに書かれたというのだ。「お造りはタイとマグロです、とぐらいしか言わんかったんですわ。そしたら、産地も伝えない、失礼な料理人やと非難されました」
ぼくには到底理解できないが、そういう客が増えていて、エスカレートしているのだという。
「最近、このマグロは何日ぐらい寝かせてるのか? てお客さんが聞いてきはったんでビックリしました」
料理の知識というものは、持たないよりは持っている方が、より深く味わえるものだが、それも程度ものであって、マグロを何日寝かせたと知ったからといって、おいしくなるものではない。知識が先行してしまうと、逆に素直に味を感じられなくなる恐れがある。
出汁の引き方を学んだとしても、それを家庭で再現するのは、コストや手間を考えれば、決してたやすいことではない。多くの家庭では液体や顆粒の調味料を使っているはずだ。どうだ! 家庭ではまねできないだろう! とひけらかす意味でしかないのであれば、料理を食べるにあたっての出汁講座など不要ではないだろうか。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2024年3月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています