今では“京都中華”という言葉とともに人気を博しているが、その中核をなす店でオムツを替えてもらっていたというのだから、京都の料理店が長く人気を保ち続けている、その根源は戦後間もなくの昭和にあったということがよく分かる。
それは何も京都に限ったことではなく、日本中あちこちの街で、外食産業の萌芽が見られたことだろう。
そして昭和39年になると、日本の食事情を画期的に変えるできごとが続く。東京オリンピック開催と、東海道新幹線開通である。その前年、昭和38年の日本初の高速道路開通と合わせ、この三つによって海外との交流、国内での流通が飛躍的な伸びを見せ、今に至っているのである。
ただ、そうは言っても今のような美食にまでは至らず、ビーフステーキやすき焼き、寿司あたりがご馳走の代表格だった。
記憶をたどると、それから数年後に大阪で開かれた万博によって食に対する関心が一気に高まったように思う。世界中の高級食材や珍味の存在を知る機会を得て、ただ単に洋食と呼んでいた料理が、国別に細かくジャンル分けされるようになり、南仏料理だとか、メキシコ料理、地中海料理などといった店が京都にも出現した。
では和食はどうだったかと言えば、今のような割烹はごく一部の美食家たちだけのものだったような気がする。
一方で料亭のほうが一般的だったが、それも法事や会合などの宴席として使うことがほとんどで、食を目当てにということではなかった。
和にしても、洋にしても、美食という言葉が一般的になったのは平成に入ってからである。その一つのきっかけを作ったのは、昭和末期から連載が始まった『美味しんぼ』という漫画だ。
どっちが美味しいかと、味を比較し競うようになり、より美味しいものを求めて、食材や調理法を極めていく、という流れを作った。
その流れは平成の30年間で加速度を増し、食べるために並ぶことや、1年も先の店の予約をすることが当然のようになったのは、平成の置き土産と言える。
平成という時代で、僕の記憶に残り続けるだろう食は、江戸前の握り鮨である。
握り鮨は昔からあったが、平成の時代にその規範がくっきりと浮かび上がったのだ。それにつれて価格が高騰したのは痛しかゆしだが。
街の食堂やファストフードの価格はほぼ一定なのに比べ、一部の割烹や鮨店などは留まることを知らず急騰している。
元号が令和に代わり、それがさらに加速するのか、それとも一定の歯止めが掛かるのか。まだ予測が付かないが、叶うなら後者になって欲しいものだ。
頂上ではなく、三合目や五合目あたりで十分愉しめた昭和の中頃を懐かしみつつ、令和の食が多くの幸せをもたらすことを願う。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。大阪歯科大学卒業後、京都市北区に歯科医院を開業。生粋の京都人であり、かつ食通でもあることから京都案内本を多数執筆。テレビ番組や雑誌の京都特集でも監修を務める。小説『鴨川食堂』(小学館)はNHKでテレビドラマ化され続編も好評刊行中。『グルメぎらい』(光文社新書)、『京都の路地裏』(幻冬舎新書)、『憂食論 歪みきった日本の食を斬る!』(講談社)など著書多数。