夏のおせち

食語の心 第41回 柏井 壽

食語の心 第41回 柏井 壽

食後の心 第41回

梅雨明けと同時に、うだるような暑さが続く毎日。八月を過ぎ、九月になっても、暑さはいっこうに安らぐ気配も見せない。いったいいつになったら夏が終わるのか。仕事をしながら、夕方のワイドショーを横目で見ていたときのことである。
〈夏のおせち〉という字が目に飛び込んできた。

当然のことだが、〈おせち〉と言えば正月の料理である。それを夏に、とはどういう趣向なのか。気になって、続きを見ていて、開いた口がふさがらなくなった。
関西ローカルの番組の話で恐縮だが、こういう愚かなことは日本国中で行われているのだろうと思い、紹介することにした。

大阪を代表する百貨店と人気番組がコラボして、物産展で〈夏のおせち〉を売り出すことになったというのだ。
そしてそれは9区画に仕切られた弁当形式で、大阪の著名な料理人9人が、それぞれ1区画ずつ担当し、9品が入った弁当を作るという企画だと分かった。

そこまでは分かったのだが、それが、どう〈おせち〉と結びつくのか、がまったく分からず、きっとその解説があるのだろうと、番組の続きを見た。
メーキングというのだろうか、それができあがるまでのプロセスは、つぶさに紹介しても、それを〈おせち〉と呼ぶに至ったいわれには、何ひとつ言及することはなかった。

つまりこの〈夏のおせち〉なるものは、〈重箱に入ったご馳走〉という意味合いしか持っていないのだった。

〈おせち料理〉というものは、言うまでもなく、平安時代に源を発する、節会料理の流れをくむもので、千年をはるかに超えて、脈々とその歴史と伝統を今に伝える料理。

その奇跡とも言える伝承は、和食がユネスコ無形文化遺産として登録されるにあたって、大きな役割を果たした。
いくら日本料理が世界で人気だといっても、ただ寿司や天ぷら、すき焼きがあるだけでは、無形文化遺産として価値あるものとして、認められることは到底なかったはずだ。宗教行事も含め、季節の歳時に合わせ、一定の形式を持つ料理を作り、それを家族が一堂に会して食べる、という世界にも類を見ない食文化があったからこそ、後世に残すべき遺産として登録されたのである。
そしてその代表とも言えるのが、雑煮を含めた〈おせち料理〉だったというのは、少しでも和食に携わる人間なら、誰もが知る事実である。

食文化と言いながら、百貨店もテレビ局も、料理屋もビジネスなのだから、売れるものを作るというのは当然のことである。しかしながら、そこには節度というか、守るべき最低限の決まりがある。売れれば何をやってもいい、というものではない。

商業主義、利益優先社会。それはもう仕方がないことだと諦めてはいるが、それにしても、あまりにひどい。〈おせち〉という料理形式を、ただ〈重箱に詰められたご馳走〉という解釈を世間に広めてしまった罪はあまりに大きい。
物産展では、一日二千個を超える予約が殺到したといい、その人気ぶりを誇示しているが、誤った知識をばらまいたことに対する反省などみじんもないことに憤りを覚える。
〈夏のおせち〉という言葉に鋭く反応し、それに異を唱える者など、数えるに足りないほどだろうと思う。

和食がブームだとか、世界が和食に夢中だとか言っても、しょせんはこの程度である。この弁当を作った9人の料理人の中には、今をときめく和食の料理人もいるのだが、何ほどの疑問も持たず、喜々としてこの〈エセおせち〉を作り上げてきたのだから、何をかいわんや、だ。

昔の料理人とは比ぶべくもないほどの短い期間の修業で、いとも簡単に独立を果たし、一軒の和食店の主人となり、それをもてはやすメディアの愚を、再三にわたって糾弾してきたのは、かかる結果が見えていたからである。
和食の料理人でありながら、うわべだけをなぞり、歴史も文化も学ばず、客集めと、利を積むことだけを師から教わった料理人。

食文化のかけらも見ることなく、ただ食をテーマにした番組を作り、視聴率のみを至上命題としてきた放送局のスタッフ。
何が、どれくらい売れたか、しか指標を持たない、百貨店の人たちどこにも、誰にも、文化という2文字は頭に浮かぶことはなかった。それが〈夏のおせち〉だった。

柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。

※『Nile’s NILE』2016年9月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

ラグジュアリーとは何か?

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