美味しいものを、しっかり味わうには健康でなくてはならない。
胃腸の調子がよくないときはもちろんのこと、風邪をひいていても、花粉症だったりしても、美味しく食事ができない。
消化器官である胃や腸の不具合が、食欲や味わいを大きく阻害するのは、ある意味で当然のことなのだが、風邪ひきや花粉症などが、美味を阻むのは、口だけでなく、鼻からも美味を感じ取っているからである。
たとえば日本料理の華ともいえる椀物。
お椀の蓋を取って、まず感じるのは、馥郁たる薫りである。けっして濃くはないが、複雑な出汁の香りを感じ取った瞬間から〈美味しい〉が始まる。
そんな精緻な香りだけではない。昔から〈匂いで食わせる〉と言われる鰻もそうだし、焼き肉、カレー、ラーメンなどなど、その匂いに引き寄せられて店に入るという料理はいくらでもある。
先に書いた鰻などは、江戸落語でも語られるように、鰻屋の店先で、匂いだけを嗅ぎ、白いご飯を食べるなどということが可能なくらいだ。実際にできるかどうかは分からないが、なんとなくできそうに思えるところが、鰻を焼く匂いの強大な力である。
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店先で焼かれる鰻の匂いに引き寄せられて鰻屋に入った。幸い客の数は少ない。いくらか待ち時間も少ないだろう。注文するのは、当然のごとく鰻丼だ。
並、上等、特別。どれにするか迷ったあげく、中ほどの上等。
お茶を飲みながら、じっと焼きあがるのを待つ。この待ち時間が長いほど美味しく感じるのが鰻屋の常。
何度も差し替えられたお茶だけをお供にして、辛抱強く待つ。
そしていよいよ鰻丼登場。待ちかねた瞬間に胸が躍らぬはずがない。大きな期待を込めて蓋を取る。これだ、この香りだ。箸を付ける前に、まずは香りを胸いっぱいに吸い込む。さあ箸を取っていざ、という、まさにそのとき、グループ客が入ってきた。男性が4人。席に着くやいなや、いっせいに煙草に火を点けた。天国から地獄へ落とされた。
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これは実際に僕が、とある京都の鰻屋で体験した話である。昔ながらの風情漂う鰻屋で、頃合いの値段とこの店ならではの味わいで、贔屓にしていたのだが、唯一の難点が喫煙可だということ。
それでも煙草のマナーを心得る客が増えてきた近年、めったに喫煙客に出くわすことがないのだが、この日は悲劇に見舞われた。空いた店なのに、よりによって僕のすぐ隣のテーブルで4人が一斉に吸い始めたものだから、鰻の香りなんかどこかに消えていってしまった。
見知った店なので、何度か禁煙にするよう頼んだのだが、喫煙客の足が遠のくのを恐れてか、いつまで経っても喫煙可のままである。
いくら美味しい鰻だとしても、煙草の匂いに混ざってしまっては、すべて台無しになる。この悲劇を境にして二度とこの店には足を踏み入なくなった。
愛煙家からは禁煙ファシズムという声が上がるほど、禁煙スペースは増加の一途をたどっている。交通機関は車内のみならず、駅やバス停なども禁煙とし、公共施設はもちろんのこと、多くの店でも禁煙が一般的となっている。
それに比して飲食店の禁煙化は著しく遅れている。憩いの場だからというのも分からなくはないが、煙草の煙が〈美味しさ〉の邪魔になることは誰も否定しないはずなのに。
喫煙者を締め出そうとは思わない。ただマナーを守れない客が居るのだから、分煙なり、喫煙スペースを作るなりして改善するのは飲食店の責務だと思うのだが。
本来は規則ではなく、来店客のマナー、常識に委ねるべきものなのだが、どうも最近はそれが怪しい。
最近のコンビニ前は喫煙所と化していて、前を通りすぎるのが苦痛になってきた。路上禁煙区域でもお構いなしだ。衆を頼むかのように群れて吸う。あるいは飲食店でも灰皿があれば、誰遠慮なく吸い続ける。隣の客に声をかけてから、なんていう紳士淑女に会ったことがない。
煙草だけではない。匂いの強い香水を平気で付けてくる客も〈美味しい〉の天敵だ。いつから日本人は香りに対して鈍感になったのだろう。
煙草を吸うな、とも、香水を付けるな、とも言わない。ただそれが人の迷惑になっていないか、少しばかり気を配るべきだと思う。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2016年5月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています