前回、新蕎麦を味わうには塩が一番と書いた。新蕎麦ならではの青い香りを愉しむには、蕎麦つゆの風味がいくらか邪魔をする。そんな意を込めて書いたのだが、これを店から強要されるとなれば、話は別である。
ここ数年の傾向だと思うのだが、店で食事をする際、塩で食べよ、と押し付けられることが多い。
最も顕著なのは、先に挙げた蕎麦屋。新蕎麦の時期でもないのに、まずは塩で食べよ、と言われるのはあまり愉快なことではない。
あるいは天麩羅屋。穴子などは、大根おろしをたっぷりと混ぜ込んだ天つゆに浸して食べると、実に旨いのだが、揚げ手の主人は、塩で食べると魚の質の良さが際立つと言う。
京都には、天つゆを一切出さず、最初から最後まで塩だけで食べさせる天麩羅屋があり、星が付くほどの人気店だが、僕には苦痛でしかなかった。
焼き鳥屋や焼肉屋でも、近年は同じような傾向があって、上質の肉は塩で食べるようすすめられる。魚と同じく、肉本来の旨さが味わえる、というのがその理由だ。
はたしてそうなのだろうか。料理屋たるもの、それでいいのか。店で塩を付けて食べるとき、僕はいつも疑問に思う。
塩梅(あんばい)という言葉がある。調味に使う塩と梅酢のことを指すが、転じて、食物の味加減を言う。そしてその、塩梅を計るのが料理人の仕事ではなかったのか。
揚げた天麩羅や、握った鮨(すし)に、料理人自ら塩を振るなら分からなくもないが、客に塩梅を委ねてしまっては、調味と呼べないだろうと思う。
塩加減、もしくはさじ加減という言葉もある。付ける塩の量によって、大きく味が変わる。その肝心要を客に任せるのはいかがなものか。
やれモンゴルの岩塩だ、何千年も前の塩だと言って、それを味わい分けよ、と言われても、さほどの違いを感じることなど出来はしない。微妙な味の異なりを感じるとすれば、塩の種類ではなく、付けた塩の量だろう。
その証しともなるのが焼き魚。たとえば鮎の塩焼きなどは、どれくらいの振り塩をするか、どの部位に塩を付けて焼くか、で大きく味わいが異なってくる。
微妙な塩加減は、料理人の腕の見せ所である。それを放棄してしまうかのような傾向は、料理人の腕を鈍らせる結果しか生まない。
そして、さらなる問題は、調味を塩に頼ることは、ともすれば、手抜き料理に陥る危険性があることも指摘しておきたい。
どんなに秀でた塩であっても、それは自然が作り上げた産物であって、そこには料理人の技術は介在しない。有り体に言えば、塩は容器から出すだけでいいのだ。
蕎麦屋にせよ、天麩羅屋にせよ、つゆを作る手間は並大抵のものではない。出汁を取り、調味料を加え、独自の味に仕立て上げる。そこに心血を注いでこそ、客はその味わいに心を揺さぶられるのだ。
塩信仰とも呼びたくなるような、過剰な塩味偏重は、画一的な味覚を客に強いるだけでなく、料理人の技量をも低下させる。何事もほどほどがいいのである。
加えて、日本には醤油を始めとして、味噌や味醂、麹などさまざまな調味料があり、それらを足したり引いたりして、個性豊かな風味が生まれるのだから、それを使わないというのは何とももったいない。
カビを筆頭に、多くの微生物が介在し、長い時を経て作られる調味料は、日本の誇りとも言える。もしも醤油や味噌なかりせば、とてもじゃないが日本料理は存在し得ない。
いや、日本料理だけではない。今や日本の国民食とまで言われるラーメンとて同じ。醤油、味噌、とんこつの三つがラーメンの味付けの柱を成していることは疑う余地もない。
中国から渡来した料理の中で、なぜラーメンだけが突出した人気を、長く保ち続けているかと言えば、味に変化があり、それが日本独自の調味料をベースにしているからだ。
無論、元は中国だが、日本独自の発展を遂げ、時に和食の一つとして数えられるほどになった。とんこつはさておき、醤油と味噌という、日本が誇る二大調味料を味の基本としたことが、その最大の要因。
そして興味深いのは、醤油も味噌も発酵という過程を経て、作り出される調味料だということ。
世界文化遺産に指定された和食。その味のキーワードは発酵なのである。次回はその話を。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2014年11月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています