美味しさを判断する能力

食語の心 第16回 柏井 壽

食語の心 第16回 柏井 壽

食語の心 第16回

美食。グルメ。究極。さまざまな言葉を駆使して、人は旨い料理を追い求め、その成果を披瀝する。

ツイッターやフェイスブックなどのSNS、個人のブログ、食の口コミサイト、発表の場はいくらでもある。場があるからか、需要があるから場が生まれたのか。いずれにせよ、どんなものを食べたか、という事実を人に伝える場は圧倒的に多い。それは例えば、読書や映画鑑賞、旅行記などに比べて突出していることは、誰の目にも明らかだ。
いったいなぜそうなったのか。

あまりにも当たり前すぎて、ここに書くことすらはばかられるが、人間というものは基本的に、毎日三度食事をする。毎日同じものを食べていたとしても、一日に三度とも、贅沢な外食をしたとしても、三度の食事、という意味では同じことである。

人間というのは不思議なもので、人がどんなモノを食べているのか、気になってしまう。それが証拠に、レストランなどで食事をしていると、後から隣の席に来た客が、決まって、こちらのテーブルに目をやって、何を食べているかを横目で見る。
言ってみれば、ブログやフェイスブックで、食べたものを紹介するのは、この延長線上にある。

SNSでは、友だちだから、儀礼的に「美味しそう!」とコメントしたりするが、実は、自分はもっと美味しい店を知っている、と自慢したくて仕方がない。時にはそれを、チラッと匂わせるようなコメントを書いたりする。するとまたべつの友だちが割り込んできて、店の自慢ごっこになる。

ざっと計算すると、一日に三食、ひと月だと百回近い食事になる。特殊な人を除けば、これが平均値。では読書はどうだろう。映画はどうだろう。ヘタをすれば月に一冊も読まないかもしれない。映画ともなれば年に数回観ればいい方かも。食が話題にされやすい所以である。

さて、ここからが本題。

家での食事は横に置くとして、外食をネット上で紹介するとなると、投稿者の選択眼が問われる。

「なんだ、こんな店に行ってるのか」と他人から思われないためには、評判のいい店、行列のできる店、予約の取りづらい店など、世評の高い店に行けば無難。うらやましがられることはあっても、馬鹿にされることはない。
それらの店に行けば、必ず証拠写真を撮らねばならない。となれば、時には店側の了解も得なければならず、自然と客の立場は弱くなる。

こうして店に行って、食べた記録を公開するとなれば、悪くは書けない。まして皆が絶賛している店ともなれば、同じように高い評価をしないと、味音痴だと思われかねない。

結果、高評価の店はさらに評価が高まり、行列のできる店は、ますます、その行列が長くなる。予約の取れない店は、半年先が、1年先になる。店のインフレ・スパイラルと呼びたくなるような現象が起こり、日本全国どこの街でも、その傾向は強まるばかり。

我が京都の様子を見ていると、人々はいかに、多数意見に付くかが、手に取るように分かる。
例えば親子丼で有名になった蕎麦屋では、開店と同時に長い行列ができ、その列が絶えることはない。そして、居並ぶ客のほぼすべてが、親子丼を注文し、食べる前に必ず写真を撮る。
こうなると、食事というよりイベントである。有名なお寺に行って記念撮影するのと、何ら変わりはない。金閣寺をバックにするか、親子丼を前にするか、の違いだけ。
無論まずくはないから、満足する。投稿も絶賛調なら、口コミサイトへの書き込みも高点数になる。

どんなにこの店に旨い蕎麦があろうと、食べるのは親子丼でなければならない。かと言って、他にどれほど親子丼の美味しい店があっても、この店でなければならない。美味しい親子丼を探して、この店に行き着いたのではなく。この店で親子丼を食べることが、眼目なのだ。こうして、食はますますイベント化していき、そして味覚も鈍っていく。

美味しいかまずいかを判断する能力が欠如し、多数意見に従うことで安心感を得るようになる。
その行き着く先は、可食かどうかすら、自分で判断できなくなり、記載された賞味期限に頼るしかなくなってしまう。

その結果、日本は世界でも類を見ないほど、多くの残飯を出すようになってしまった。飢餓で命を落とす子供が世界にあふれている中、なんとも申し訳ない話。今一度、美食という言葉の意味を見直すべき時が来ている。

柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。

※『Nile’s NILE』2014年8月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

ラグジュアリーとは何か?

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それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
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