地方を旅して、美味しい店をどうやって見つけるか、そんな話の続き。
北陸のとある地方都市。秀逸な串揚げ屋を見つけ、満ち足りて食事を終えようとして、カウンターを挟んで、店の主人と食談義となった。
鮨の旨い店を探していることを伝えると、間髪を入れずに答えが返ってきた。
「ウチの店のすぐ裏に、去年かな、鮨屋ができたんですよ」
「どんな鮨です?」
僕は即食らいついた。
「江戸前の鮨みたいです。評判もいいですよ」
江戸前鮨フリークの僕には、願ってもない話ではないか。
勘定を済ませると、主人が送りに出て来てくれた。
「よければご案内しますよ」
そう言って案内してくれたのは、まさしく串揚げ屋の真裏。
こぢんまりした構えは好感が持てる。加えて、店の中から楽しげな談笑が漏れてくる。
思い切って扉を開けた。雰囲気を確かめたかったのだ。
本当に小さな店だ。L字型のカウンターは満席。小上がりにも二人客が入っている。笑顔を向けてくれた、まだ若いだろう主人に訊いた。
「スパークリングワインはありますか?」
「シャンパンなら置いてますけど」
「持ち込んでもいいですか?」
いきなり不躾なリクエストをしたのに、あっさり快諾してくれたので、すぐに翌日の予約を入れた。
こうして翌夜訪れた鮨屋は、まったくもって、僕好みの店だった。それはまるで、奇跡のように素敵な時間になった。
若い主人は小さな地方都市で、本格的な江戸前鮨にチャレンジしたものの、受け入れてくれる客が少なくて、迷い始めていた。このまま続けていいものかどうか。
きっと僕が背中を押すことになったのだろう。帰り際には、吹っ切れたような表情で、見送ってくれた。
すべては歩いて見つけた店から始まった。どんなに周到に準備し、下調べをしたとしても、こんな結果は得られなかっただろうと思う。美味しい店に出会うというのは、こういうことなのだ。歩いて見つける。そこからつながっていく。それは客にとってはもちろん、店にとっても幸せな結果を生む。
口コミサイトの功罪は、幾度となく書いてきた。どんなに駄店であっても、やたら誉めちぎって、絶賛するレビューもあれば、文句ばかり連ねて、罵詈雑言を浴びせる、営業妨害にも近い書き込みもある。どちらも不健康である。
畢竟、店は人でもっているのだが、それは口コミサイトでは、なかなか見えてこない。常連と思しき客たちが楽屋落ち的な物言いをすることは多々あっても、初見の客がどんな印象を持ったのか、までは分からないのが実状。
北陸を訪ねてから、一カ月も経ったころ。今度は東海の都市に滞在した。新茶の季節にふさわしい駿河の街。新幹線で通過することはあっても、この街で泊まったことがない。右も左も分からないので、とりあえずは駅前のホテルを取って、繁華街をぶらついてみた。
気軽にワインが飲めて、旨いアテがある、そんなワインバーを求めて歩くこと暫し。ちゃんと出会えるのがうれしい。
真っ赤なファサードに魅かれて入った店は〈ワインばる〉という名。どこの街にでもありがちな、軽い店に見えるが、僕が着目したのは、店から出て来て誘ってくれた店のスタッフ。
とにかく笑顔が素晴らしい。加えて説明が丁寧。店に入って十分と経たず、きっといい店だと確信を持った。店とはそうしたものなのである。美味しいもの。その定義は難しい。美味しい料理があればそれでいいのか。ただ料理だけでなく、居心地を含めた店の有り様に、その理想を求めるのか。
間違いなく僕は後者である。ただ旨い料理なら厳選した食材を集め、最上のレシピで調理すればいい。だが、それをもってして、満ち足りた食事と言えるだろうか。きっと否である。
人は美味しいものを食べたいのではない。美味しく食べたいのである。両者の差は歴然たるものがあって、前者に不平不満は残っても、後者は多くが満ち足りて箸を置くことになる。歪みきった日本の食を立て直すには何が必要なのか。それを少し考えてみたい。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2014年7月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています