食を綴る

食語の心 第5回 柏井 壽

食語の心 第5回 柏井 壽

食語の心 第5回

何かと話題になる、食の口コミサイト。おびただしい数のレビューがアップされている。あるいはグルメブログと呼ばれる、個人の食ブログ。これまた数え切れないほどのブロガーがいて、日々その食遍歴を書き連ねている。

これほどに食を語り合う国民が他にいるのだろうか。

食を語ると言えば、元祖とも呼ぶべきは文豪を始めとする作家と文人墨客たち。大作を生み出す合間の余技として、あるいは食専門とも言えるほどに、食を綴り続けた作家や文人は決して少なくない。今と同じように、食を書きながら、どこか、何かが違う。これら先達が書く食にあって、今の時代のライターやブロガーにないもの。それは品格である。

性と同じく、食という営みは、動物的本能に基づくものであり、それゆえ、ともすれば猥雑な空気を漂わせる文章になってしまう。名だたる文人や作家たちは、さすがの筆致で、食に情趣を加える。まるで実際に食べているような、いや、それをも上回る味わいを感じ取ることができる。さらにそこに、さりげなく薀蓄がちりばめられている。味わいに加えて、知識まで与えてくれてこその〈食語り〉だろうと僕は思っている。そして最も肝心なことは淫らにならないことである。

長きにわたって読み継がれている、優れた文学に描かれている性描写と、いたずらに動物的本能を刺激するような、官能小説とがまったく異なるのと同じく、文豪の描く食と、多くの食レビューやブログに書かれる食は似て非なるものである。

たとえば蕎麦を食べるとして、物書きたちは、その一杯の蕎麦を包む情景を描写することに意を注いだ。店のたたずまい。主人の立ち居振る舞い。もしくは内儀の気配り。器や盛り付け。これらを描くことで、既に蕎麦の味わいが読み手の脳裏に浮かんでくるから不思議だ。つるりと喉越しの良い更科蕎麦か、香り高くも荒々しい田舎蕎麦か。これこそが〈食語り〉の醍醐味なのである。

これに比して今の食の書き手たちは、微に入り細に入り、あーだこーだ、と食そのもののディテールばかりを書き込んで、ちっとも周りの情景を描かない。皿の上だけに終始する。なのに、その蕎麦の味わいがまるで伝わってこない。

どこそこ産の蕎麦粉を使い、から始まり、石臼でひき、だの、エッジを立てて、と、いかにその蕎麦が素晴らしいかという賛辞を連ねることに終始する。そしてそれらは全てが店側の情報を垂れ流しているだけの受け売りに過ぎないのだが、誰もがそれを恥じることもない。これではまるで店の広報ライターではないのか、と思える文章が多すぎる。

蕎麦に限らず、プロもアマも、あまりに料理人の言葉を鵜吞みにしているのではないか、と思う。食べて何かを感じる前に、まずは知識が先行してしまう。牛肉料理を前にして、まずはブランド名を挙げ、それをどれほど熟成させたか。何度で調理したか。まるで科学の実験のような記述を、立ち会ってもいないのに、断定的に書いてしまう。一切の検証もない。

基本的に僕は、食を綴るときに、この手の情報は書かないようにしている。雑誌ならキャプションで補うことはあるかもしれないが、産地ですら「だそうだ」と書き、断定はしない。確かめようがないからだ。あくまで感じたことだけを綴る。それが〈食語り〉の要諦だと思っている。

食を語る。あるいは綴るなら、野に咲く花を思い浮かべるのがいい。

どんな場所で、どんな風情で咲いているのか。香りはどうなのか。大きさは、色合いは。どこに惹かれたのか。花は何も情報を伝えないから、見たまま、感じたままを書くしかない。それを食にも当てはめればいいだけのこと。あまり知識を詰め込まずにいた方が素直な文章になる。

秋も深まったころ、京都の割烹で食事をすれば、恐らくは焼き物として出てくるだろう魚が若狭ぐじ。夏から秋にかけてが漁期となる。普通にはアカアマダイという名で通っている。つまりは甘鯛なのだが、若狭ぐじというブランドが付けば高級品となり、料理人にとっては素材自慢、調理技術を語りたくなるのは必定。それをそのまま鵜吞みにしたのではつまらない。

なぜ甘鯛をグジと呼ぶのか。そんな質問をぶつけてみる。

「グジは昔、屈する頭の魚と書いてクツナと呼んだんやそうです。それを略して、クツとかグツと呼んでた漁師言葉が訛ってグジになったと聞いてます」
そう答えてくれたら百点満点の料理人。

「身が柔らこうて、グジュグジュしてるさかいにグジと言うんと違いますか」
これも悪くない答えだろう。
最悪は、「さぁ、なんででっしゃろなぁ」

理系より、文系の料理人の方が旨い料理を作る。過去の経験則に基づく、僕の見分け方である。料理の産地や、細かな料理法ばかりを力説する料理人より、薀蓄話やエピソードを語る料理人の方が聞いていても愉しい。

さてその若狭ぐじ。昆布で〆(しめ)たり、椀種にしたり、棒寿司に設えたり、とさまざまな調理法で愉しめるが、最も一般的なのは塩焼きだろう。

他の魚と違うのはウロコごと焼くこと。そのウロコが立っていて、パリパリと香ばしく食べられれば合格点。ウロコを立てずとも味わい深く食べることができれば、極上の腕前。そして何より、身がパサツカず、しっとり、ほくほくに焼き上げてあれば、熟練の腕前と判断できる。

料理人からの一方通行ではなく、客とのやり取りがあって、初めて食を語り、綴ることができる。それにはしかし、客の側もある程度の知識が必要となる。事前の予習を怠らないことが〈食語り〉を愉しくする最大の勘所であり、受け売りばかりを連ねずに済む対処法でもある。

料亭から割烹へ。客と料理人がキャッチボールを愉しむ時代の流れは、今や旅館にまで及んでいる。次回はそんな話をしよう。

柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。

※『Nile’s NILE』2013年9月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

ラグジュアリーとは何か?

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それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
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