タスマニアで考えたこと

時代を読む-第40回 原田武夫

時代を読む-第40回 原田武夫

時代を読む――原田武夫 第40回 タスマニアで考えたこと

今、私はこのコラムを我が国から遠く離れた南の島・タスマニアで書いている。オーストラリアの最南端に位置する島だ。窓外には州都ホバートの港、そして青い海が見えている。

シドニーを経由してここまで来たのにはもちろん理由がある。オーストラリアを代表する金融機関でアジア担当の調査部長を務めている親しい知人が、先日、丸の内のホテルでランチミーティングをしている時、こう教えてくれたのだ。

「タスマニアには南極から吹き付けてくる風が直接あたるのよ。だからとてもピュアな雨が降る。そのまま口を開けて飲めるのよ」

この言葉を聴いて私は、直感的に思った。「タスマニアに行かなくては」と。

なぜならばこれは要するにタスマニアには、我が国の陰陽道(風水)でいう「“気”の佳(よ)い場所(龍穴)」がたくさんあるということを意味しているからだ。

最近、私は我が国で地方行脚を集中的に行ってきている。その度に出会う、いわゆる「富裕層」の方々に、しばしばこう聞かれるのである。

「これからの世界が不安定だというのはよくわかっています。だからお聞きしたい。一体何を買っておけば大丈夫なのでしょうか」

私は必ずこう答えている。

「絶対に大丈夫なものというのは存在しません。古典的ではありますが、分散投資をしておくしかありません。資産形成という発想を捨て、資産は価値を守るべきものと考えてください。だからといって、資本主義そのものが壊れて、跡形もなく消えるということもあり得ません。私たちに欲望があり続ける限り、それに基づく資本主義も同じく存在し続けるからです」

そこで私があえて言わない答えがもう一つある。今行うべきなのは「少しでも佳い場所」を確保することだという点についてである。なぜなのか。

今起きている全ての出来事は、太陽活動の激変に伴う気候変動の激化に基づいている。とりわけ北半球で今年の夏は、ラニーニャ現象によって我が国においては暑くなる。だが「上げは下げのため」なのであって、秋から冬にかけて今度は極端に寒くなることもまた見えているのである。その時、私たちの多くはようやく気付くのだ。「このままここに住み続けて大丈夫だろうか」と。

同じことは世界の他の国々、とりわけ北半球に位置する米欧諸国について特に当てはまる。19世紀後半からつい先日までは、歴史上まれに見る「温暖化」の時期であったからこそ、米欧諸国は自らが優位な文明を構築することができたのである。なぜならば温暖であれば人体は活力に満ち、まさに「負ける気がしなくなる」からだ。ところがこれが一転して寒冷化になると、話は全く違ってくる。それでもなお、優位を保とうとする米欧の統治エリートたちは、そうなってもいまだ温暖な土地を求めて、さまよい始めるに違いない。陣取り合戦の始まりだ。

かつて「大英帝国」がオーストラリア、そしてタスマニアにまでやって来た動機はここにあったに違いない。まずは囚人たちを大量に送り込んでは開墾させる。その後、拠点を築き、都市を創り上げたのである。例えばシドニーの街中を歩いていると英国、とりわけロンドンの地名がたくさん名付けられていることに気付く。

当時の彼らにとってオーストラリアは、寒冷化でテムズ川まで氷結してしまった英国本国に代わるべき「セイフ・ヘイブン(safe haven)」だったのである。「大英帝国」が持続可能な発展を遂げたのには、こうした理由があったのだ。

「いざその時」になってから、南の人士とわたりをつけようとしても遅すぎる。だから私は今から集中的に「南へ、南へ」と友人を求め、繰り出しているのだ。賢明なる読者の皆さんにも、「その時」に向けて今から動いておくことを強くお勧めしたいと思う。

「大英帝国」だけではなく、華僑やユダヤといった富裕な民族集団が「動く」のにはやはり訳があるのだ。そう、ここタスマニアに来て強く思っている。

原田武夫(はらだ・たけお)
元外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。情報リテラシー教育を多方面に展開。2015年よりG20を支える「B20」のメンバー。
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ラグジュアリーとは何か?

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