「鎖国」と二つの「普遍」の衝突

時代を読む-第12回 原田武夫

時代を読む-第12回 原田武夫

時代を読む――原田武夫 第12回「鎖国」と二つの「普遍」の衝突

最近、気になって仕方がないことがある。それは今、国内外で起きている全てのことが最終的には何に収斂するのかということだ。無論、目先で細かく色々なことは起きており、今後も起き続けるはずだ。その度に多くの人たちが激しく動き回り、歴史が織り成されていく。だが、世界史の大流からすれば「さざ波」に過ぎないそうした出来事を超えて、これら全てを押し流している根源的なところに私の関心はある。

こう考える時、私の関心をとらえて離さないのが約260年間も続いた「徳川幕府による我が国の平和」である。日本人にとっては当たり前のことのように思えるかもしれないが、同時代史という観点で見るとそれが全く希有な出来事であったことに気付く。17世紀から19世紀半ばにおいて、「西洋」は激烈な死闘を繰り返していた。やがてそれは「帝国主義時代」へとつながって行く。ところが我が国はその間、安泰な世の中を享受していたのである。

「なぜそのようなことが当時の日本には可能だったのか」―そう考えた時、閃いた言葉がある。「徳川家」に深く所縁のある方から、ある時言われた言葉である。

「学問としての日本史では全く語られることがありませんが、実のところ徳川家康が『カトリックとはなんぞや』ということについて、深く研究した形跡があるのです。家康の関心はカトリックが何を目指しているのかを知ることにありました。徳川幕府についてほとんど全ての史料が公開されている中、水戸徳川家には一門であっても見ることのできない『開かずの蔵』があります。恐らくはそこに大量のカトリック関連の史料が残されているのではないでしょうか」

「伴天連追放」「キリスト教の禁教」と言えば、我が国の中学・高校の歴史の中で定番の暗記項目だ。そして私たちの頭には、そうした施策は我が国が無知蒙昧かつ野蛮であり、しかも貿易利権に目が眩んだ結果、とられたものだという説明が刷り込まれている。この点について疑いをさしはさむ者は皆無というのが実態だ。

だが、他ならぬ幕府の開祖・徳川家康が国難を避けるために、あえてカトリックを禁止したとなると、全く話は変わってくるのだ。そこで言う「国難」は一つしかない。それはカトリックが「普遍」を説いているという点だ。家康は天下人として征夷大将軍に任命されるため「松平」を捨て、源氏である「得川(徳川)」の氏を入手までした。征夷大将軍を任命するのは時の天皇だ。すなわち、その天皇こそが「普遍」であるからこそ、彼のつくる「幕府」は、正統たり得るのである。ところがそこにもう一つの「普遍」が入って来てしまうと、途方もなく困るのである。そしてその「もう一つの普遍」というのが、カトリックだったというわけなのだ。

話を現代に戻す―我が国が独り「異次元緩和」「アベノミクス」でインフレ誘導を進める中、米欧やエマージング・マーケットは明らかに崩壊の一途を辿っている。そもそも太陽活動の変化による気候寒冷化が、北半球の一部で進展する中で、そこに暮らす「先進国人」たちの免疫力が落ちるのが崩落=デフレ縮小化の原因なのだ。その結果、これまでのインフレ拡大を旨とする金融資本主義は終わり、人類全体の思考と生活が大きく変化するのである。

大事なのは、そこで新たな「普遍」が求められることなのだ。私はそこで再び問われるのが「日本か、カトリックか」という選択肢なのだと考えている。脱金融資本主義をバチカンが先行して唱え、禁欲的な法王フランシスコが選任された理由もそこにあるはずだ。そして私たち日本人が家康に代わって、これから成し遂げるのは全世界という意味で文字通り「天下」の泰平なのだ。

原田武夫(はらだ・たけお)
元外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。
情報リテラシー教育を多方面に展開。講演・執筆活動、企業研修などで活躍。
https://haradatakeo.com/

ラグジュアリーとは何か?

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