濁流の渓流釣りでポスト「日本バブル」を考える

時代を読む-第8回 原田武夫

時代を読む-第8回 原田武夫

時代を読む――原田武夫 第8回

最近、渓流釣りを始めた。小学生の頃、大流行したマンガ「釣りキチ三平」に憧れた私だが子供にとって遠路はるばる山奥にまで入っていく渓流釣りは手の届かないものだった。

その後、外交官になり、分析者・言論人・経営者へと転身する中、全くと言っていいほど時間がとれない日々が続いていた。だが「念ずれば叶う」とはよく言ったものである。

大切なお客様が北海道に暮らされるようになり「釣りでもしますか」とお誘いいただいたというわけである。しかも氏は札幌で一番の釣り師の「師匠」を紹介してくださった。

9月上旬の週末。師匠、この経営者氏、そして私の3名で連れ立って北海道・ニセコで「参戦」することとした。折しも早朝5時から札幌では小雨であった。快晴になることを念じつつ氏が愛車を飛ばしてくださるが、あいにく徐々に本降りになってきたのである。

「それじゃぁ、ここで試してみましょう」

師匠がそうおっしゃるや否や、私たちは支度に入った。見ると幅3mほどの流れ。両岸には背の高い雑草「イタドリ」が群生しており、しかも岸までは3mほど滑り降りなければならない。素人の私がやや怯(ひる)むのを見て師匠が大笑いする。

「こういうところにはあまり人は入らないのですよ。だから大きな魚がいるはず」

てきぱきとした師匠の指示どおり、川面に糸を垂らす。エサはイタドリの中にいる幼虫だ。師匠はナイフでさっくりと太い茎を割り、蛾(が)の幼虫たちをとっていく。川は明らかに増水しており、濁流になりかけている。

上流からは枝が流されており、何度も針が根がかりしてしまう。「流心(流れの中心)には魚はいないから。ゆっくりと流れている淵(ふち)と流心の“間”にうまくエサを流して」。そう師匠が言うが、なかなかうまくいかない。雨は激しくなるばかりだ。

師匠はまさに「釣りの天才」だ。

たいていの場合、糸を垂らした瞬間に釣り上げている。その言葉はあまりにも「絶対」なのだが、不意に私の胸の中に悪戯(いたずら)心が芽生えてきた。「師匠はそうおっしゃるが、ここであえて流心に流してみてはどうだろう」

するとどうだろうか。「ググッ」と魚信があり、大きく手元で合わせた。「おっ、流心なのに来ましたか!」傍らにいてくれる師匠も満面の笑み。大物のイワナを釣り上げた。

この時、釣果こそ冴(さ)えなかったが、300㎞ほど走破しつつ札幌に戻る経営者氏の車の中で、ふと思ったことがいくつかある。増水し、濁流である度合いが高すぎるとエサとゴミの区別がつかず、用心深い渓流魚は食いつかなくなる。

だが、逆にギリギリのタイミングで糸を垂らすと意外な大物がいたりする。日銀買いオペで株大暴落となった5・23ショック以降の日本株マーケットも同じで、恐怖心を抱いた個人が誰も買わない中、意外に大きな動きをしている銘柄がある。

第二に「プロ」だから絶対に正しいということはあり得ないということだ。「常識の裏」にこそ、これからの“未来”へと開く扉があることはマーケットでも渓流でも同じなのである。最終的には己の直感、これだけに頼って前へ前へと進むのが正しい。

第三に「エサ」の取り方を知らなければ釣りは出来ないということだ。マーケットが主体である真の金融資本主義へといよいよ突入した我が国でも全く同じ。まずは「エサ」となるマネーをゼロから稼ぎ、それをマーケットという大流へと投げ込むことで、大物を釣り上げる。

現在の「日本バブル」の次に早ければ2年後にやってくるのは暴落、そして脱マネー社会だ。その時、大自然を相手に生き残る力をつけるため、読者も一度釣り糸を垂れてはどうか。必ず気づきがあるはずだ。

原田武夫(はらだ・たけお)
元外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。
情報リテラシー教育を多方面に展開。講演・執筆活動、企業研修などで活躍。
https://haradatakeo.com/

ラグジュアリーとは何か?

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それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
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