江戸の花見名所 図会

花見の風習が庶民にまで広まったのは、じつは江戸時代になってから。意外と新しい。当時の花見遊山の情景を、錦絵を頼りに掘り起こそう。

Text Junko Chiba

花見の風習が庶民にまで広まったのは、じつは江戸時代になってから。意外と新しい。当時の花見遊山の情景を、錦絵を頼りに掘り起こそう。

渓斎英泉『花見帰り隅田の渡し』川口宇兵衛、国立国会図書館デジタルコレクション
花見帰り隅田の渡し
墨田堤は花街・新吉原と、目と鼻の先だ。芸者衆が隅田川を渡し船に乗って花見に興じることもしばしばだった様子。つやっぽい情景である。当時のこの「粋な遊び」が、現在の「屋形船に乗って、酒食とともに楽しむ花見」につながったのだろう。
渓斎英泉『花見帰り隅田の渡し』川口宇兵衛、国立国会図書館デジタルコレクション

起源とされるのが、令和という年号の由来である万葉集にある「梅花の宴」のようなスタイルだ。当時、梅は唐から渡来しためずらしい花。貴族に人気で、万葉集の歌の中でも桜より梅を詠むものが多かったそうだ。

梅と桜の人気が逆転したのは、平安時代以降のこと。「古今和歌集」には、在原業平による「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」という歌を始め、数多くの桜の歌が残る。

その後、桜を愛でる花見の文化は、武士の時代になって定着し、源頼朝や足利将軍家など、武家社会の有力者たちに踏襲された。とりわけ豊臣秀吉が京都醍醐寺(だいごじ)で千人余りを集めて催した宴は、豪華さにおいてピカイチだ。この時の花見が、「風流な歌会」から、一方で“長谷川平蔵スタイル”を残しながらも「飲めや歌えやの宴会」に形を変える分岐点になったのかもしれない。

さて宴の〆は、芭蕉の句としゃれこもう。芭蕉は扇を広げて、はらはらと散る桜の花びらを受け止めながら、酔いの余韻を味わったのだろうか。桜のはかなさ漂う風雅な句である。

扇にて 酒くむかげや ちる桜

(左)広重『名所江戸百景 飛鳥山北の眺望』名所江戸百景、魚栄、安政3、国立国会図書館デジタルコレクション(右)広重『武蔵小金井』冨士三十六景、安政5、国立国会図書館デジタルコレクション
(左)名所江戸百景 飛鳥山北の眺望
ここの花見では、崖の上から素焼きの小皿を投げる「土器(かわらけ)投げ」という遊びが流行したそうだ。江戸は当時から人口が50万人を超える過密都市。花見客を分散させる狙いもあって、多くの名所を開いたという。お上にしては粋な計らいだ。
広重『名所江戸百景 飛鳥山北の眺望』名所江戸百景、魚栄、安政3、国立国会図書館デジタルコレクション
(右)武蔵小金井
吉宗による新田開発に際して、小金井橋を中心とする玉川上水両岸約6kmに桜が植樹され、花見の名所となった。ただ、いかに健脚を誇る江戸の人でも、片道7里半を徒歩で行くのはしんどい。小金井桜は日帰りではなく、宿泊して楽しんだそうだ。
広重『武蔵小金井』冨士三十六景、安政5、国立国会図書館デジタルコレクション
1 2 3 4
ラグジュアリーとは何か?

ラグジュアリーとは何か?

それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
サステナブル、SDGs、ESG……これらのタームが、生活の中に自然と溶け込みつつあります。持続可能な社会への意識を高めることが、個人にも、社会全体にも求められ、既に多くのブランドや企業が、こうしたスタンスを取り始めています。「NILE PORT」では、先進的な意識を持ったブランドや読者と価値観をシェアしながら、今という時代におけるラグジュアリーを捉え直し、再提示したいと考えています。