起源とされるのが、令和という年号の由来である万葉集にある「梅花の宴」のようなスタイルだ。当時、梅は唐から渡来しためずらしい花。貴族に人気で、万葉集の歌の中でも桜より梅を詠むものが多かったそうだ。
梅と桜の人気が逆転したのは、平安時代以降のこと。「古今和歌集」には、在原業平による「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」という歌を始め、数多くの桜の歌が残る。
その後、桜を愛でる花見の文化は、武士の時代になって定着し、源頼朝や足利将軍家など、武家社会の有力者たちに踏襲された。とりわけ豊臣秀吉が京都醍醐寺(だいごじ)で千人余りを集めて催した宴は、豪華さにおいてピカイチだ。この時の花見が、「風流な歌会」から、一方で“長谷川平蔵スタイル”を残しながらも「飲めや歌えやの宴会」に形を変える分岐点になったのかもしれない。
さて宴の〆は、芭蕉の句としゃれこもう。芭蕉は扇を広げて、はらはらと散る桜の花びらを受け止めながら、酔いの余韻を味わったのだろうか。桜のはかなさ漂う風雅な句である。
扇にて 酒くむかげや ちる桜