持続する「百年の輝跡」

銀座に中国名菜の館を構えて100周年を迎える銀座アスター。銀座に地歩を固めつつ、変貌する町とともに波瀾万丈の歴史を刻んできた。中央通りに本店を含む五つの店舗を展開する同社は、今や、「銀座のシンボル」的存在だ。時代の大きなうねりを、銀座アスターはいかに生き抜いたのか。創業以来守り続けている経営の「核心」と、機を見るに敏で事業に新風を吹き込む「革新」―。創業家3代目・矢谷郁社長が、過去から未来へと続く「銀座アスターの不易流行」を語る。

Photo Masahiro Goda  Text Junko Chiba

銀座に中国名菜の館を構えて100周年を迎える銀座アスター。銀座に地歩を固めつつ、変貌する町とともに波瀾万丈の歴史を刻んできた。中央通りに本店を含む五つの店舗を展開する同社は、今や、「銀座のシンボル」的存在だ。時代の大きなうねりを、銀座アスターはいかに生き抜いたのか。創業以来守り続けている経営の「核心」と、機を見るに敏で事業に新風を吹き込む「革新」―。創業家3代目・矢谷郁社長が、過去から未来へと続く「銀座アスターの不易流行」を語る。

持続する「百年の輝跡」、銀座アスター
矢谷郁 やたに・かおる
創業者矢谷彦七の孫娘として銀座・日本橋で生まれ育ち、幼い頃から銀座の商売を肌身で学ぶ。大学卒業後ホテルオークラにて研鑽を積んだ後に両親の経営する銀座アスターへ入社。宣伝PRやデザインを主に担当し、当時リニューアルを手掛けた銀座アスター本店は代表作となった。2002年に代表取締役に就任、以来「日本橋紫苑」「草 日本橋」「目黒テラス」「銀座南店」など、多彩なコンセプトを持つブランドレストランを世に問い続け、いよいよ創業100周年を迎える。

銀座一丁目に本店を構える銀座アスターは、日本橋髙島屋新館に「草(そう)日本橋」、日本橋三越新館に「日本橋紫苑(しおん)」、新橋方面には松屋銀座店、銀座五丁目には銀座南店と、中央通り沿いに個性豊かな5店舗を展開している。都内に約20店舗を構えながらもチェーン店らしさを感じさせない背景には、「金太郎飴的経営」を避け、店舗ごとの個性を重視する矢谷郁(かおる)社長の信念がある。

異才が現代の名菜を生む

「同じアスターでも、店によってコンセプトが異なります。中には別の名前の店舗もあって、当然、店の雰囲気も、提供する料理も違ってきます」銀座なら、例えば本店は随所に中国の美術品を配した、重厚にして洗練された空間が特徴的。中国料理の伝統を重んじた料理が楽しめる。もう一つの路面店、銀座南店はふらりと立ち寄りたくなる、こぢんまりとした、落ち着いた店だ。

また「草 日本橋」は、書の書体の「真行草」の最後の一文字を当てて店名としている。本店は正格を表す「真書」。対するこの店は、正格を崩した風雅な「草書」。遊び心のある料理を提供する。郁社長は「紬(つむぎ)のような感じ。滋味が身心に染み渡る料理」だと言う。このほか「日本橋紫苑」は、中国特級調理師がグランシェフを務め、清朝宮廷料理の流れをくむ料理がすばらしい。「どの店も昔から人気の高い名菜をベースとしていますが、それ以外のところではかなり調理人の自由裁量に委ねています。年齢や個性もさまざまな才能のある調理人が、その自由を意気に感じて創造力を発揮する。そういう姿勢がいろいろな店の調理人に連鎖的に広がることが、私は楽しいんです」

時代の荒波にもがきながら

個性を尊重するこの姿勢は、同社の歴史にも根ざしている。創業者・矢谷彦七氏は30歳で「矢谷バター」を創業したが、関東大震災で工場を失い、銀座一丁目の店舗を手に入れて中華料理店を始めた。競合が少ないこと、そして上海やサンフランシスコで味わった中華の記憶が理由だったという。

  • 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター
    銀座アスターの創業者である矢谷彦七氏は、海運会社勤務を経て「矢谷バター」を起業し、中国にも事業を展開した国際派ビジネスマン。写真は19歳の頃。
  • 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター
    昭和30年代の銀座アスター本店の客席。本格的な料理と中国ムード漂うインテリアは、開店してすぐに話題を呼び連日大盛況の人気店となった。
  • 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター
  • 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター
  • 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター
    1926年、銀座一丁目にオープンしたばかりの銀座アスター本店。店名は上海にあった「アスター・ハウス・ホテル」にちなんだもの。
  • 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター
    1954年に造った工場では、焼売、餃子、11種類の中華菓子などを製造。運搬兼宣伝用の車が町を走る姿が話題になった。
  • 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター
    1949年ごろ、有楽町で焼売のビラを配ることも。銀座アスターの焼売は看板メニューとして創業当初から多くの人に愛されている。
  • 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター
    当時のチラシには名物料理の「チャプスイ」も見られる。鶏・家鴨(あひる)・豚・鮑(あわび)などと、筍・白菜他の野菜を千切りにして炒
    め、鶏のスープを加えた料理だ。
  • 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター
  • 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター
  • 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター
  • 持続する「百年の輝跡」、銀座アスター

当初は広東料理を中心としたアメリカ風レストランとして始まったが、後に純中国風に転じて人気を集めた。その後も火災や日中戦争、東京大空襲など困難が続くが、彦七氏の一人娘・喜久子氏が再建を訴え、復興を果たす。戦後の宴会ブーム、百貨店への出店ラッシュで事業を拡大しつつも、料理とサービスの質を高めるため、喜久子氏は国交回復前の中国を視察し、本格中国料理への転換を推進。これが高級店路線の出発点となった。

悠久の時間の中で磨かれる「技芸」

郁社長は1983年に入社。2002年の社長就任以降は、特級調理師を顧問に迎え、技術力と理念を基礎から育てる人材育成体制を整備した。若手調理師を新卒から育て、文化や思想も含めた「技芸」を継承する仕組みが、銀座アスターの土台を支えている。

リーマンショック、震災、コロナ禍と、時代の荒波にも直面してきた郁社長だが、「即席では本物にならない」と語る。「技芸を磨き、時代の変化に柔軟に対応しながらも、目指すべきは“永遠に残るブランド”。3世代、4世代の家族が集える店であり続けたい」と、その思いを語る。

事業を通して、お客様や従業員など、かかわる人みんなの世代をつないでいく。それもまた銀座アスターの持つすばらしい企業価値と言えそうだ。

1 2 3
ラグジュアリーとは何か?

ラグジュアリーとは何か?

それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
サステナブル、SDGs、ESG……これらのタームが、生活の中に自然と溶け込みつつあります。持続可能な社会への意識を高めることが、個人にも、社会全体にも求められ、既に多くのブランドや企業が、こうしたスタンスを取り始めています。「Nileport」では、先進的な意識を持ったブランドや読者と価値観をシェアしながら、今という時代におけるラグジュアリーを捉え直し、再提示したいと考えています。