Brindisi
そもそもアッピア街道を建設した目的は、機能的な軍用道路の確保だ。だから、流れ出た溶岩に添って、丈夫でまっすぐな街道を造った。道幅は4m以上で戦闘用の馬車が行き違える広さ、車道の両側には1~3m程度の歩道が設けられていた。車道と歩道は分離されており、川や谷には橋を架けて、できるだけ街道と同じ高さになるようにしてある。
さらに、特筆すべきは、基本的な舗装構造が現代の舗装道路と酷似していること。断面で見ると、深さ1.5m程度の4層構造になっており、下層路盤が大きな石、中層路盤が中くらいの石、上層路盤が粘土と砂利を混ぜた層、表面は分厚く頑丈な玄武岩で隙間なく埋め尽くされている。つまり、表面の玄武岩をアスファルトやコンクリートに置き換えると、ほぼ現代の舗装道路と同様の構造というわけである。
また、街道のすぐ脇に樹木を植えることを禁止した。というのも、地下に伸びる根が、街道の車道部分に侵食するのを防ぐためだ。
こうした道路に関する規定は、前450年に完成したローマで最初の成文法「十二表法」に詳しく定められている。ローマ伝統の卓越した土木技術は、こうした法の下、後世に確実に残すことができたのだろう。
アッピア街道の当初のルートは、ローマのセルウィウス城壁出口の一つカペーナ門(カラカラ浴場付近)を起点に、カンパニア地方のカプアまでを結ぶ212㎞。その後、ベネベント、ターラントを経て、ギリシャ方面とつながる主要港であり、アドリア海に面するブリンディジまで延長して全長約540㎞に。この距離を2週間ほどで移動できるようになっていたという。
まっすぐで頑丈な街道を建設することで、軍を迅速に移動させ、各都市を制圧。全イタリア半島にその勢力を広げたのである。ローマを中心に放射状に延びるローマ街道は、375本の幹線だけで8万㎞以上、支線を合わせると最盛期には全長約32万㎞に及ぶ巨大なネットワークを形成。ローマの文化や技術、帝政末期に国教となったキリスト教を、世界に普及させたのだ。
表舞台から消えたアッピア街道
強大なローマ帝国の滅亡後、アッピア街道は、歴史の表舞台から姿を消し、長らく使われていなかった。しかし18世紀に入り、ローマ教皇ピウス6世の命により修復され、再び利用されるようになる。
街道の広い部分は元の状態で保存されており、ところどころは今も自動車道として“現役”である。ローマに近い街道沿いには、ローマ時代の墓碑や初期キリスト教のカタコンベ(地下墓所)なども数多く残っている。
1960年、ローマ・オリンピックの陸上男子マラソンのフィナーレを飾る舞台として“現役”のアッピア街道が世界中から熱視線を浴びた。暮れ落ちた石畳の街道を裸足で走るエチオピアのアベベ・ビキラの姿は、古代ローマの英雄を彷彿(ほうふつ)させていた。