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富街嫋嫋

「蜂須賀25万石、藍60万石」と謳われた徳島の花街富田町は、かつて「富街(ふうがい)」と呼ばれていた。明治時代、富田町に検番が設けられ、昭和初期の最盛期には芸妓は200人を超えた。数多くの料亭が立ち並んだ路地を、お座敷へと急ぐ芸妓や人力車が行き交い、それは華やかだったという。「富街」は阿波藍の商談の場として、県の財界、官界などの会合の場として繁栄し、三味線の音は引きも切らなかった。お稽古事の盛んな徳島の風土と相俟って芸妓たちは皆、器量よしで芸達者。時は移り人は変わりながらも、かつての嫋嫋たる風情が残る「富街」を歩いた。

Photo Masahiro Goda  Text Nile’s NILE

「蜂須賀25万石、藍60万石」と謳われた徳島の花街富田町は、かつて「富街(ふうがい)」と呼ばれていた。明治時代、富田町に検番が設けられ、昭和初期の最盛期には芸妓は200人を超えた。数多くの料亭が立ち並んだ路地を、お座敷へと急ぐ芸妓や人力車が行き交い、それは華やかだったという。「富街」は阿波藍の商談の場として、県の財界、官界などの会合の場として繁栄し、三味線の音は引きも切らなかった。お稽古事の盛んな徳島の風土と相俟って芸妓たちは皆、器量よしで芸達者。時は移り人は変わりながらも、かつての嫋嫋たる風情が残る「富街」を歩いた。

夜の富田町を闊歩する「料亭しまだ」の芸妓衆。左から、梓さん、美冬さん、若女将の富美栄さん、美月さん、杏奈さん。

阿波・徳島は、蜂須賀家が統治した約300年の間に、阿波藍の専売によって莫大な富が築かれ、この城下では武士も町人も繁栄の時を過ごした。眉山のふもとには整然と連なる伊賀町、弓町、幟町、籠屋町、紺屋町、銀座といった昔のままの町名と町割で、その城下のにぎわいが伝わってくる。

1889(明治22)年に市制が施行された際の徳島市の人口は6万861人。東京、大阪、京都、名古屋、神戸、横浜、金沢、広島、仙台に次ぐ、全国第10位の大都市であった。

「料亭しまだ」の玄関先でにこやかに立ち話をする女将の島田ゆかりさんと、若女将の富美栄さん。

阿波藍の富で発展した花街

明治時代の後半にピークを迎えたのが阿波藍である。ずっと阿波の財政を支えてきたが、藩政時代は藩が阿波藍(藍すくも)を厳重に管理。毎年12月に藍大市が行われ、全国から商人たちが品定めしにやって来たという。こうした藍商人たちを接待する街として発展したのが、徳島の花街・富田町である。通称、富街だ。

富田町に検番が設けられたのは明治時代。第1次世界大戦の好景気に沸いた大正時代の初期には、富街を中心にして数多くの料亭やお茶屋、待合があり、それが毎夜、不夜城のようなにぎわいを見せていた。芸妓が170人以上、舞妓が8人、財間6人、義太夫が8人も所属していたが、それでも足りないことがよくあったという。

活気にあふれていた富街の隆盛には、きっかけをつくった人物がいた。一人は検番のすぐ近くに住み、多くの芸妓に三味線や清元(三味線音楽の一つで、浄瑠璃の一種)を教えていた師匠・清元延喜久(本名・高橋シゲ)である。もう一人は、“阿波おどり”の名付け親として知られ、阿波最後の粋人といわれる林鼓浪。林は芸能や書画、文芸、郷土史、民俗学など幅広い分野をカバーする文化人であり、内妻だった清元師匠とともに芸妓を指導したり、検番の相談役を務めたり、“富街の顔”として活躍した。

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    端唄の「縁かいな」をしっとりと舞ったのは、しまだのエース、美月さん。うちわを巧みに使いこなし、美しく、妖艶に、演舞した。
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    若女将の富美栄さんは、徳島民謡の「せきぞろ」を披露。赤い蹴出しを見せて舞う男踊りは勇ましく、合い間の掛け声が小気味よい。
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花街のスターお鯉さんと阿波おどり

徳島市大道生まれの10歳の少女が1917(大正6)年、富田町の清元師匠に弟子入りをした。この少女こそが、後に「阿波よしこの」の名手となるお鯉(本名・多田小餘綾〈ただこゆるぎ〉)さんである。

小学生ながら若い舞妓や芸妓と同じように本格的に三味線を習い、少しでも間違えたり音の出が悪かったりすると、師匠から撥(ばち)が飛んできて、何度でも弾かされた。それはまさに芸を高める修業だったという。

その後、14歳で富田町の置屋「うがや」に奉公に入り、芸妓「うた丸」としてお披露目。ただ、なかなかお座敷には呼ばれず、3年後に「親引き」(親が見受けをすること)となって一時検番を離れるも、本名「こゆるぎ」で再デビュー。三味線と唄がうまいお鯉さんは芸妓として成長し、高い人気を誇った。

この時代、富街の芸妓衆の大半は家娘で占められていた。花街に生きる女性といえば、苦界に身を沈めたとか貧乏ゆえ身売りしたとか、悲劇的なことを想起するが、富街の芸妓になった女性の多くは、お鯉さん同様、ごく普通の家庭の娘。幼い頃から芸を磨き、自分の得意とする芸を生業(なりわい)とした。だから富街の芸妓は皆、その仕事に高い誇りを持っていた。

こうして芸達者な芸妓ばかりがいる富街では、季節を問わず“阿波の盆踊り”を舞うようになり、上客たちの間で大ブームとなっていった。

1928(昭和3)年、昭和天皇御大典奉祝・徳島市制記念に、「阿波の盆踊り」は林鼓浪によって「阿波おどり」に改名。富街では依然として阿波おどりブームが続いた。

1931(昭和6)年になると、日本コロムビア大阪支社でお鯉さんの美声が収録され、「徳島盆踊唄(よしこの)」が誕生。翌1932(昭和7)年にレコードが発売された。これが「よしこの」の初めてのレコード化であり、全国に阿波おどりのリズムが知られるきっかけとなった。

1949(昭和24)年の暮れにお鯉さんは栄町に料亭「言問」を開業。女将として店を切り盛りする傍ら、「阿波よしこの」の第一人者として徳島の地で阿波芸能・文化の継承、発展に貢献。2008年に100歳で亡くなるその日まで、生涯現役を貫いた。

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料亭や喫茶店、バーなどの飲食店が密集する富田町。その中に、元芸妓の美弥さんが営む「和風すなっく 明代」や、元しまだの内芸妓の千代さんのワインバー「千代」が店を構えるなど、最盛期の富街を彩った芸妓が“現役”で活躍している。

それに「料亭しまだ」の内芸妓衆も加わって、今でも富田町には花街としての華やぎと活気がある。いい意味で独特の空気感を持
つ花街、それが富田町なのである。

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芸を磨くは女の誇り

時代は流れても、徳島の街中で育った女性たちの多くは、暇さえあれば三味線で小唄や端唄などの俗曲を爪弾いたり、ぞめき三味線を演奏したりしていた。女性のたしなみとして弾く手を持つことが当たり前となっていた徳島では、庶民の“お稽古事文化”に支えられ、富街は芸達者な芸妓がいる花街として130余年在り続けた。

昭和初期の最盛期には、富田町検番には200人を超える芸妓が所属していた。しかし、時代が平成に変わる頃には、芸妓が2~3人しかおらず、1人辞めれば検番は成り立たない状態だった。1989(平成元)年に富田町検番が廃止され、1996(平成8)年にその跡地は複数の飲食店が入るKENBANビルとなった。

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内芸妓の「料亭しまだ」が誕生

富街の危機に、「料亭しまだ」は“内芸妓システム”の運営に踏み切った。これには常連客からの強い要望と支援、そしてしまだの女将が代々芸妓だったことが大きいと考えられる。

「料亭しまだ」は富田町に1904(明治37)年、「翁亭」として創業。1961(昭和36)年に当時の女将・島田君子さんの本名をそのまま使って「料亭しまだ」に改称し、1964(昭和39)年に株式会社化された。島田君子さんは、栄町「言問」のお鯉さんこと多田小餘綾さんや、鷹匠町「青柳」の小山はる枝さんらとともに、名物女将として往年の花街を彩った人物である。

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    富田町検番の跡地に立つ、華やかなKENBANビル。その壁面は「曼荼羅(まんだら)」をテーマとした約13万個のLED電球で彩られている。4階には元芸妓の千代さんが営むワインバー「千代」がある。
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    「内芸妓は、お花代ではなく、お料理やお酒の代金をいただくので、明朗会計で分かりやすいとお客様からも喜んでいただいています」と女将のゆかりさん。完全予約制で、全5部屋。

    料亭しまだ 徳島県徳島市富田町2-7-4 TEL088-623-1181
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※『Nile’s NILE』2018年10月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

ラグジュアリーとは何か?

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それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
サステナブル、SDGs、ESG……これらのタームが、生活の中に自然と溶け込みつつあります。持続可能な社会への意識を高めることが、個人にも、社会全体にも求められ、既に多くのブランドや企業が、こうしたスタンスを取り始めています。「Nileport」では、先進的な意識を持ったブランドや読者と価値観をシェアしながら、今という時代におけるラグジュアリーを捉え直し、再提示したいと考えています。