1939年新潟県生まれ。同志社女子大学名誉教授。同志社大学文学部を卒業後、平安博物館助教授、同志社女子大学教授等を務める。日本古代史、とりわけ摂関時代の政治・生活・文化を専門とする。2005年に京都府文化賞の功労賞を受賞。『藤原氏千年』(講談社現代新書)、『源氏物語の風景 王朝時代の都の暮らし』(吉川弘文館)、『藤原道長―男は妻がらなり』(ミネルヴァ書房)他、著書多数。
源氏を主人公に据えた、そこに紫式部の賜姓皇族に対する尊敬と憧れが感じられる。それが、朧谷壽氏の着眼点だ。
「賜姓皇族というのは、天皇の子もしくは孫の中で苗字をもらって臣下に下った人のことです。天皇に子供が多いと、皇室経済が賄えなくなるので、この制度ができました。例えば嵯峨天皇なんて、后が30人余り、子が50人近くいたんです。皆、王とか親王になる資格のある人たちです。ただ全員を皇室に残せない。それで后の中で地位の低い子から順に臣下に降ろして、残ったのは1割くらいですよ。光源氏も帝の御子でしょ。
でもお母さんの桐壷の更衣は、同じ妻でも弘徽殿の女御より身分は下なわけ。いくら帝の寵愛を受けても、御子が優秀でも、いや、だからこそ光源氏は皇室を離れざるをえなかったんです。もっとも賜姓皇族なら、大臣クラスになれます。もし私が当事者なら、皇室の金を当てにするより、年収1億円はある左大臣になりたいけどね。そういったことから見て紫式部は『世が世なら、光源氏のような賜姓皇族は大きな力を持ち、尊貴性の高い人物なんですよ』と言いたかったと思うのです」
この賜姓皇族に象徴される身分的なことを始め、物語の舞台となる場の設定、貴族の暮らしぶりなど、「紫式部は源氏の中に、時代を踏まえた史実をきっちりと書き込んでいる」と、朧谷氏は強調する。
「二帖『帚木』に雨夜の品定めという有名な場面がありますね。あそこで紫式部は頭中将に、不中な官僚という役回りを与えています。頭中将は二人いる蔵人の人頭の一人で、近衛府の官人から補せられるのが一般です。いわば“お飾り”です。実際に政務を行うのは、もう一人の蔵人頭で、頭の弁と呼ばれる真面目な役人です。
つまり紫式部は、頭中将を源氏にろくなことを教えない色好みの男として描くことによって、痛烈な官僚批判をしているのです。
また場については、現実にあった建物が散見されます。例えば十八帖『松風』に源氏が造らせた御堂の話があって、大覚寺の南と記されています。ここは嵯峨天皇の第12皇子で賜姓皇族である源融が建てた棲霞観でしょう。また平安京の中の源氏の住まい、六条院はやはり融が造った河原院とされています。さらに源氏の息子の薫が住んだ宇治院は、間違いなく藤原道長の別荘だった宇治殿ですが、時をさかのぼれば融が住んでいた。源氏物語の主要舞台にはだいたい融が関わっているんですね。だから私は、源氏のモデルは源融が最有力で、紫式部はその融を意識した場の設定をしたと思うのです。
あと平安京の場で言うと、夕顔の住まいを五条辺りにしていますね。平安京の上級住宅は左京の中でも四条から北の地域です。夕顔は身分の低い女だから、長屋風の家の多い南の方の五条に住まわせた。紫式部は身分から言って町を歩くことはできませんが、牛車で通りかかることはある。物見高い女性だから、御簾をちょっと開けて町の様子を観察したのでしょう。四帖『夕顔』の冒頭で五条辺りを『むさくるしい所』と、事実を書き込んでいます」
源氏物語には紫式部が見聞きした時代の制度や風景が投影されている。ならば恋愛模様はどうだろう。平安貴族たちは奔放に恋をし、性愛に身を委ねたのだろうか。朧谷氏は「自由恋愛はないね、特に高貴な人たちの間では」とキッパリ。
「だいたい親の間で話が決まる。手続きとしては、まず男が手紙で求婚の気持ちを伝え、それを受け取った女の両親や兄弟が吟味した上でどうぞと返事を出す。そして夜、男が女の所に通う。婿の一行は松明を先頭に女の家へ向かい、契った翌朝は暗いうちに帰る。その後すぐに、和歌を入れた後朝の文を遣わす。これを3日ほど続けた最後の晩に双方の両親がやって来て宴を張る。それで結婚が成立です。離婚は簡単で、男が通ってこなくなったら、あるいは女が逃げるとか、自分の家から男を追い出すなどしたらおしまい。源氏物語にあるような身分違いの恋や禁断の恋などは、なかったでしょうね。隠れて、は分かりませんが」
源氏物語を読むと、自由恋愛が炸裂している感があるが、朧谷氏によると、紫式部の想像の産物らしい。「男運に恵まれずに鬱積した気持ちを晴らそうと、『自分がもし男だったら、そこいらの男と違って優秀だから、光源氏くらいのことはできるでぇ』と夢想した、その願望を物語に託したのだろう」というのが氏の見解である。面白い……。
※『Nile’s NILE』2013年11月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

