近江の竹生島は相模の江の島、安芸の厳島と並んで「日本三弁才天」と称される。いずれも水辺の地。弁才天にはもともと、サラスヴァティーに由来する水の神という性格があるので、水に深い関係のある場所に祀られることが多いのだ。
インドの土地の守り神であったサラスヴァティーは、やがて仏教に採り入れられて、水が豊饒をもたらすことから人々に富を与える仏となった。その名が中国で「大弁才天女」などと訳され、日本に略称の弁才天として伝来。そして仏教が広まった平安時代、川や湖、海などにまつわる土地の守り神が、神仏習合によって弁天社に祀られるようになったという。さらに時代が下がって江戸時代も半ばになると、弁才天は七福神の一員として宝船に乗り、財宝神としての性格を強めていく。「弁財天」の文字が当てられるようになったのはこの頃だ。
では、竹生島ではどのようにして弁才天信仰が形成されたのか。その内奥を見ようと、船に乗り込んだ。
竹生島へ
竹生島は湖北の長浜港から約12㎞の距離。約30分の航路だ。はるか遠くに見えた島影が、しだいにくっきり輪郭を表してくる。宝厳寺と都久夫須麻神社(竹生島神社)という寺社のみで占められた、周囲2㎞のこの花崗岩でできた小さな島に、まさに「湖上の聖地」たる神秘を感じる。
島の由緒が面白い。『近江国風土記逸文』が伝える話によると、「伊吹岳の神が姪の浅井岳(現・金糞岳)の神と高さを競って負けてしまった。浅井の岡が一晩のうちに高さを増したのだ。怒った伊吹岳の神は浅井岳の神の首を切り落とした。その首が琵琶湖に落ちて島となった」というのだ。神様は意外とやることが残酷だ。931(承平元)年の『竹生島縁起』はこの伝説の立場をとってか、浅井姫の首が沈む時に「都布都布」と音を立てたことから島の名を「都布夫島」といい、この島に最初に生えた竹にちなんで「竹生島」と書く、としている。もっとも島の名は「(神を)斎く島」に由来し、その「いつくしま」が「つくぶすま」に変じて「竹生島」になったという説もある。
いずれにせよ、竹生島が古来、神の宿る島として崇拝の対象になっていたことは確かだろう。実際、都久夫須麻神社は459(雄略天皇3)年にその浅井姫を祀る小祠ができたことを創始としている。
船のデッキに立ち、風を受けながらそんな伝説に思いを馳せるうちに、みるみる島が迫ってきた。
「あれこそ聞え候竹生島」
木曽義仲討伐のために北国へ赴く途中で、平の経正が聞いた供の声が心にこだまする。『平家物語』巻七の「竹生嶋詣」に描かれた挿話では、経正はその声に心を動かされて島へ渡り、竹生島明神を拝し、経を読んだのだ。さらに夜、経正が琵琶を弾くと、その音に感応して明神が白龍となって現れたとか。
こういう神にまつわる物語は、竹生島の弁才天信仰が地霊への信仰を古層として形成されたことを如実に示しているように思う。
神仏習合のパイオニア
船を降り、港から島を見上げる。急峻な斜面の中腹に立つ朱色の三重塔に向かって、長く急な石段が駆け上がっている。165段。「きついというほどでもないが、楽でもない」微妙な段数だ。巡礼者や参拝者が祈りを捧げながら上ったことから、「祈りの階段」の名が付けられたという。程なく宝厳寺の本堂に着いた。入母屋造り、檜皮葺。寺内最大の建物だ。「弁才天堂」とも呼ばれるここに、秘仏の本尊・弁才天像が祀られている。「日本三弁才天」の中でも最も古いことから「大」の字を付けて「大弁才天」と称される。内陣正面の須弥壇の厨子に安置され、60年に一度の開帳なので、めったにこの秘仏を見ることはできない。が、須弥壇の周りは眷属の十五童子と多くの弁才天像が祀られていて、圧倒される思いだ。
弁才天像は、宝厳寺最大の祭礼「蓮華会」で、人々の代表として選ばれた頭人によって奉納された新造のもの。1000年以上続く祭礼だけにその数は膨大で、内陣裏にも年ごとに新造されてきた多くの像が安置されているそうだ。宝厳寺の弁才天信仰の歴史を物語っている。もっとも現在は、新造は頭人にとって大変な負担になるため、宝厳寺から預かった弁才天像で渡御することもある。それでも頭人を務めることは昔も今も最高の栄誉だ。行事が終わると、「蓮華の長者」「蓮華の家」としてその名が留められるという。
開創は724(神亀元)年。聖武天皇が天照大神のお告げを受けたことがきっかけだと伝えられる。
「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」
聖武天皇はこのお告げに従い、僧行基を勅使として遣わして堂塔を開基させた。行基は早速竹生島に渡って草庵を結んで仏道修行をし、四天王像を造立して、小堂に安置した。それが宝厳寺の始まりだという。前述の「大弁才天」は、この時に行基が開眼したものである。行基はさらに翌年、観音堂を建立し、千手観音像を安置した。以来、天皇の行幸が続き、最澄や空海なども来島し、修行したと伝えられる。平安時代になると、竹生島は観音霊場として名を高め、特に天台系の仏道修行の霊地となったのだ。
こうして仏教色を濃くしていく中で、湖中に鎮まる島の神であった浅井姫命が弁才天と同一視されるようになったと考えられる。水神でもある島の神が本地仏としての弁才天と習合した、ということだ。
また湖中にあることから、宝厳寺観音堂は観音の住む補陀落山に擬せられ、「西国三十三所観音霊場」の30番目の札所として、多くの人々の信仰を集めた。
といったことを考え合わせると、竹生島では、8世紀初頭に各地に現れた神仏習合の潮流と軌を一にして、かなり早い時期から神仏習合が進んでいたことになる。言ってみれば竹生島は、神仏習合のパイオニア的霊島なのである。
都久夫須麻神社が祀る4柱の神
宝厳寺を後にし、舟廊下を渡って都久夫須麻神社本殿に向かう。迎えてくれたのは宮司の生嶋厳雄さん。信仰の源流をたどりつつこう語る。
「竹生島が信仰され始めたのは2、3000年も前のことです。湖畔に住む人たちは魚や貝などの食糧の恵みに感謝し、一方で大雨が降ると水位が上がって家が潰されることを非常に恐れた。それでいつも琵琶湖に向かって拝んでたんでしょうね。向こうに見える〝ひょっこりひょうたん島〞に手を合わせて。その時に多分、彼らは巳さんの姿を思い浮かべた。豊かな恵みをもたらす水の神様としてね。それからです、金寶冨貴の神様になったのは。信長も秀吉もその祈願にここへ来たんですよ。
神仏習合の時代には、弁才天もこの本殿に祀られていました。竹生島弁才天社だったんです。それがある日突然、法律で仏教と神道に分けられた。1871(明治4)年の神仏分離令です。それで仏像は置いたらアカンということで、今は宝厳寺の本堂、弁才天堂に安置されてます。でも、弁才天は市杵島比売命という神さんとして、ここに残ってます。そういう経緯があるから、面白いことに、うちは神社なのに信者さんの1割……はないけど7%くらいはお坊さんなんです。お坊さんでも考え方はいろいろで、『こっちが本物や』と参られる方もおられるんですね。まぁ、建物からして弁才天堂は1942(昭和17)年に建てられたもので、こちらは450年前に秀吉が寄進した伏見桃山城の日暮御殿(勅使殿)を移築したとも伝えられる国宝ですからね」
宮司のこの話に出てきた市杵島比売命は天照大神の子で、『古事記』では海上・陸上の道を開いた交通安全・開運厄除の神様とされる。福岡県にある宗像大社の「宗像三神」の一柱で、仏教が広まった平安時代に弁才天と同一視されたことで知られる。宗像三神は、古来日本と朝鮮半島との貿易に活躍した宗像氏が祀った海の神。中でも最も美しい神と言われた市杵島比売命が、インド生まれの美しい仏、弁才天と結び付けられたらしい。都久夫須麻神社にはこの市杵島比売命が天智朝の時に祀られたとされている。
ほかに、五穀豊穣・商売繁盛の神様・宇賀福神、産土神にして水神でもある浅井比売命、龍神の4柱の神様が祀られている。
国宝の輝き
「ここは3回、大きな火事に遭いましたが、その都度、10年ほどで再建されてきました。土地の信仰だけではとてもできなかったでしょうね。弁才天信仰が形成されたおかげで、勧進・復興がかないました。最後の火事は1558(永禄元)年の大火。堂塔がことごとく失われました」
と生嶋さん。時は戦国乱世。当時の住持であった自尊は勧進に歩くが、復興は思うに任せなかった。その窮状を救ったのが豊臣秀頼だ。片桐且元を奉行として、現在の都久夫須麻神社本殿である弁才天社殿を始め唐門とこれに隣接する観音堂など、寺容の回復に取り組み、竹生島は鮮やかによみがえった。その多くの建物が国宝として、今に伝えられている。
宮司の案内で、特別に内陣を拝観させていただいた。「先ほど伏見城が移築されたと言いましたが、唐門や観音堂と同様、秀吉の御霊を祀った豊国廟の遺構だという説もあります。どちらにしろ、素晴らしいでしょう?」の言葉には、うなずくばかりである。
狩野光信が描いた天井や左右の襖等の彩色画はもちろんのこと、黒漆塗りの上にいわゆる「高台寺蒔絵」的表現が全面に施された柱、長押、桁など、見事の一語に尽きる。
「襖絵は、こないだ京都の博物館で見た長谷川等伯の障壁画よりいいと思うくらい」とついポロリと言ってしまった宮司の気持ちがよく分かる。当時の建物の中にそのままの形で残る襖絵は、ほぼここにしかないと言っていい。こういった国宝にもまた、今日に至るまで竹生島が積み重ねてきた弁才天信仰の歴史が刻まれているのだ。
国宝の輝きの余韻に浸りつつ、竹生島への旅を終えて改めて思う。神仏頼みは投資や資産運用の王道であり、金寶冨貴への祈念はこの地に極まると。
※『Nile’s NILE』2015年10月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

