The Birth of Okinawa

赤瓦の家並みや門柱を飾るシーサー、色鮮やかな花々。沖縄を訪れる旅人は、この島の南国情緒あふれる風景に魅了され、その風が持つ、穏やかな懐の深さに心を癒す。明治12年までの約450年間、沖縄は琉球王朝が支配する王国だった。それは広大な海を渡って諸外国と交易し、中国や日本、東南アジアから多彩な文化と人材を受け入れながら、独自の文化とアイデンティティを見出した海洋王国であったのだ。琉球の歴史を紐解き、現代に伝わる信仰の世界を辿れば、知られざる沖縄の「貌」が見えてくる。

Photo Satoru Seki Text Rie Nakajima

赤瓦の家並みや門柱を飾るシーサー、色鮮やかな花々。沖縄を訪れる旅人は、この島の南国情緒あふれる風景に魅了され、その風が持つ、穏やかな懐の深さに心を癒す。明治12年までの約450年間、沖縄は琉球王朝が支配する王国だった。それは広大な海を渡って諸外国と交易し、中国や日本、東南アジアから多彩な文化と人材を受け入れながら、独自の文化とアイデンティティを見出した海洋王国であったのだ。琉球の歴史を紐解き、現代に伝わる信仰の世界を辿れば、知られざる沖縄の「貌」が見えてくる。

首里城から南西に延びる首里金城町の石畳道。琉球王朝の国王、尚真王が16世紀に主要道として整備したといわれ、現在も当時の面影を残している。

琉球王国の歴史を映す栄華の象徴

那覇港を見下ろす高台に立つ首里城は、沖縄を理解する上で欠かせない場所である。13世紀から16世紀中期にかけて完成された首里城は、沖縄が北山・中山・南山の3大勢力に分かれていた三山時代、中山王の拠点として用いられたのが始まりだといわれている。のちに中山から発して琉球統一を果たした尚巴志に受け継がれ、1429年から1879年までの約450年にわたる琉球王国時代、政治を司る王府が置かれていた。

三山時代から琉球は中国・明に臣下の礼をとり、定期的に朝貢する冊封関係を築いた。江戸時代に入り薩摩に侵入されて日本の幕藩体制に組み込まれてからも、表面的には王国としての形を残され、中国との冊封関係を続けている。この頃、琉球の支配者たちは日本と同化するのではなく、むしろ中国文化を積極的に取り入れたという。

数度にわたり焼失し再建が繰り返された首里城には、その建築様式や装飾に中国と日本の強い影響が見られる。また、祭政一致の政策がとられた琉球独特のものとして、城の中に聖地や拝所を有しているのも特徴だ。正殿だけでなく細部まで見て歩くと、復元された煌びやかな城の背景に、独自の歴史を築いた沖縄の姿が透けてくる。

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    首里城を囲む城壁。琉球石灰岩の切石が用いられ、総延長1,080m、高さ6 ~ 15m、厚さは3mに及ぶ。首里城は沖縄戦で焼失し、現在見られるのはかつて復元されたものだが、城壁の
    一部に当時の姿が残されている。
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    首里城にて。一見すると中国の影響が強いように感じられるが、構造や細部の意匠には日本の建築様式も取り入れられている。
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    内金城嶽境内に立つ首里金城の大アカギ。かつて城の内外にも同様のアカギが生育したが、沖縄戦で焼失し、6本のみが残された。
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    首里城には王の象徴とされた龍が33体棲む。泰平の時代に再建されたため、軍備より政治の中心としての役割が強く、装飾的だ。
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万国の架け橋となり、宝を集めた海洋王国

首里城で有名なもののひとつに「万国津梁の鐘」がある。1458年、琉球王国6代目の王・尚泰久が鋳造させた鐘で、有名なのは鐘そのものよりも刻まれている銘文である。

銘文には次のような趣旨の漢詩が刻まれている。―琉球国は南海の美しい国であり、朝鮮の優れたところを取り入れ、中国と日本とは非常に親密な関係にある。(中略)船をもって万国の架け橋となり、珍しい宝はいたるところに満ちている。

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    内金城嶽で祈りを捧げる人。かつて村人が通る度に霊気に打たれたことから拝所が置かれ、神々と王府との交流の場となったという。
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    首里城の風景。王が居住する宮殿も兼ねていたため、城壁内に数多くの施設が建てられ、随所に広場や信仰上の聖地が見られる。
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    金城町を流れる仲之川。水質水量ともに優れ、琉球王朝時代の日照りの折には首里城内の御用水としても用いられた。
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三山時代から琉球王国時代を通して、琉球は明との冊封関係を基盤に、タイやインドネシアなど東南アジアから仕入れた品を明に進貢し、明から持ち込んだ品々を日本や韓国に輸出する中継貿易によって栄えていた。鐘の銘文は、海洋国家としての琉球王国の性格を現代に伝えている。

モノだけでなく人の交流も盛んに行われ、明からは貿易従事者として人員が派遣され、那覇に久米村という中国人の村が作られていた。日本からも堺の商人などが貴重な品々を求めて移住していたようである。政治の舞台でも明や日本出身の人材が数多く活躍した。

琉球王国は島という限られた範囲にとらわれず、海を通じて日本や中国など諸外国の文化を受け入れながら独自の文化を花開かせた国なのだ。尚泰久の後、琉球王国は尚円金丸による第二尚氏政権へと続き、薩摩侵入までの百数十年間、最盛期を迎えることとなる。

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    琉球王家の別邸、識名園。冊封使の接待に利用された。「勧耕台」と呼ばれる展望台からは、海のない、大地の風景が見渡せる。琉球を大国のように見せるためであったという。
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    琉球王尚真によって1501年に築かれた、第2尚氏時代の王家の陵墓。往時の姿を残す沖縄最大の破風墓で、世界遺産にも指定されている。ここに葬られるべき王族の名を記した碑文も残る。
    も残る。
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交易によって萌芽した伝統工芸

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    琉球では、諸外国の影響を受けて数々の伝統工芸が生み出された。(右から)王族や貴族の衣装に用いられた「紅型」。紅型の「紅」は色の総称のことであり、フクギの木を染料に用いた黄色の衣装が高貴な色として重宝された。
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    薩摩と朝鮮の技術を凝縮させて生み出された「壺屋焼」。
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    交易相手国にとって最高の献上品であった「琉球漆器」。沖縄の強い太陽と湿気を含んだ風が漆の乾燥に適していた。
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撮影協力/那覇市伝統工芸館 TEL098-868-7866

※『Nile’s NILE』2011年5月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

ラグジュアリーとは何か?

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それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
サステナブル、SDGs、ESG……これらのタームが、生活の中に自然と溶け込みつつあります。持続可能な社会への意識を高めることが、個人にも、社会全体にも求められ、既に多くのブランドや企業が、こうしたスタンスを取り始めています。「Nileport」では、先進的な意識を持ったブランドや読者と価値観をシェアしながら、今という時代におけるラグジュアリーを捉え直し、再提示したいと考えています。